福井県立大学地域経済研究所

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  • 人件費と付加価値

     10月26日(水)に開催された福井県立大学創立30周年記念「地域経済研究フォーラム」特別シンポジウム『創造時代(Society5.0)の仕事術』で、中沢孝夫氏(福井県立大学名誉教授)による基調講演『仕事の意味─「人的資源の成長」を基礎に─』(第1部)を聞く機会を得た。

     日頃考えていたことへのヒントなど、色々と面白い話を聞くことができたが、なかでも「すぐに役にたつ人間はすぐ役に立たなくなる」という言葉は心に残った。企業が100年続くためには変化しつづける必要がある。変化しなければ価格競争になる。価格競争から逃れるためには、付加価値のあるものを作りつづける必要がある。そのためには開発力が大切である。そして、今迄と異なること、差別化することを考えるためには、基礎となるリベラルアーツ(教養)の厚みが大切である。たとえ専門性が高く「すぐに役にたつ」としても、リベラルアーツが基礎にないと人間が狭くなり、応用がきかないので「すぐ役にたたなくなる」。一見無駄なことをすることで人間が広くなる。同時に一つのことに集中することで見えてくることがある。この両方を持つ人材が必要であり、育てていかなくてはいけない。(以上は私の理解です。中沢先生の講演の趣旨とは異なります。ご容赦を)

     さらに、2014年に開催された地域経済研究所特別シンポジウムでの中沢先生の報告「福井の歴史経路と発展への道」を思いだした。冬が長く、雪が深く、交通が不便であるといった福井の条件の悪さが、逆に福井を育んだというものであった。逆境を克服することや失敗から学ぶことが福井の強みとなり、「幸福」日本一とされる福井になれたという話が面白かった。このロジックはとても怖く、時々思い出して考えている。福井は「不幸」だから強くなれた。とすると「幸福」になった今はどうなのだろうか。

     ご存知のように福井は「幸福」日本一を謳っている。ところが福井の企業にはまだ「不幸」だった時代から変われていない企業がまだあるように思える。たとえば最近社会的な課題となっている人件費について「安い」ことを売りにしていないだろうか。「賃金が安いことで県外の企業を福井に誘致している」と聞いたことがある。「地元出身の学生しか雇わない」という話も聞いた。実家暮らしなら、家賃の補助がいらず、給料が安くても暮らしていけるからとのこと。「幸福」を知っている学生に「不幸」だった時代と同じままでやる気を出して働いてくれるだろうか。優れた人材を集めることができるのだろうか。

     労働力の安さに頼っている企業にとって大変な時代になる。実習生に頼っている企業であれば、これまで日本に来てくれた国の実習生が円安の影響で日本に来なくなることが懸念されている。日本の人件費が高いならと、安い労働力を求めて海外に進出する企業もある。中国へ行き、ベトナムへ行き、カンボジアへ行き、今はミャンマーだろうか。その次は? 日本の労働力が安いからと世界を一周して戻ってきたら笑えない。労働力の安さに頼る経営からは脱却しなくてはいけない。たとえ価格が高くても価値があると顧客が考える仕事はできないだろうか。人件費が高くてもより大きな付加価値を生みだすことできれば良いのではないか。

     すでに様々な企業で、多種多様な努力が積み重ねられている。なかでも京セラのアメーバ経営で活用されている「時間当たり採算」は参考になる。「時間当たり採算」では労務費を費用とせず、生み出した付加価値を時間当りで測定している。これによって、給料と生み出した付加価値を比較できるようになる。従業員は自分の仕事と給料を比べ「食い扶持を稼ぐ」ことができているかがわかる。もし「稼ぐ」ことができているなら会社に貢献していることになり、できていないなら会社に食わせてもらっていることになる。創意工夫を重ね、いかに付加価値を生み出すかに労働者を誘うことができる。経営者にとってはビジネスが付加価値を生みだしているか判断する指標となり、戦略を考える出発点となる。

     人件費はコストではない。付加価値を生み出す源泉なのだ。企業の存続・成長には、どれだけ人に投資するかが生命線となる。「福井は人件費が『安い』ですよ。人件費は一見高く見えますが、それ以上にビジネスが成功しますから。」そんなことが当たり前に言える地域になれたらと思う。

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  • ウェルビーイングに欠かせない2つの場 ―居場所と舞台

     人の幸福、健康、福祉などを広範に包含する“ウェルビーイング(Well-being)”という概念に近年注目があつまっている。ウェルビーイングという言葉が世界的に認知されるようになったのは、WHOが健康を定義する際に「健康とは、身体的・精神的・社会的にウェルビーイングな状態」と表したことが起点。それ以来ウェルビーイングは「身体的・精神的・社会的に良好な状態にある実感する幸せ」と捉えられ、公共政策やまちづくり分野での活用及び研究が世界中で盛んに行われている。

     今回は研究の結果見えてきたウェルビーイング実感に欠かせない2つの場としての居場所と舞台の重要性についてお届けしたい。

     人の幸せを学問するウェルビーイング研究の系譜を辿ると、幸せとは何かを哲学的アプローチにより問うことからはじまっている。古代ギリシャに生きたアリストテレスは、幸せを最高善と呼び、人が生きる上での最上の目的であるとした。以後も多くの哲学者がこの問いを繰り返してきており、私たち人は、紀元前から現在まで2500年もの間、幸せをずっと問うてきている。

     次に、二つ目の社会科学的アプローチ。個々人の価値観を尊重し主観的な視点を重視し、幸せの実感であるウェルビーイングを測定する方法がここ20年で進歩した。これにより、一人ひとりの幸せの状態や集合体としての国や地域の幸福度を数字により見える化することが可能となった。これまで幸せに関しては、哲学や思想による議論が一般的であったが、多様な関係者と合意がとれる科学的な数字を介して幸せを議論することができるようになった功績は大きい。

     しかしながら、実際どうやって人々のウェルビーイングを深めることができるのか。この点は、まだまだ手探りな状態である。そこで、三つ目の新たなアプローチとして、まちづくりアプローチとしての場づくりに私は注目している。

     人々の幸せを深めるプロセスに欠かすことのできない人と人とのつながりや他者との対話や協働が生まれうる最小の空間単位としての場の在り方にヒントがあると考えるためだ。

     先行し、越前市において、居場所と舞台の研究調査を行った。自分の住まう地域にほっとできる居場所があるとおもうか、また、自分を表現したり活躍できる場や機会としての舞台があるとおもうかを尋ねると、居場所と舞台を持てているという実感が高い人ほどウェルビーイング度が高く、加えて、引き続き住み続けたいという定住意思も高いことが分かった。また、男性に関しては居場所と舞台ともに30代に課題があり、女性に関しては10-20代は居場所を持つのが難しく、30代では舞台を持つことが難しいと実感していることが分かった。共通して、若い世代に課題が見られる。

     人々が幸せに人生を生きるためには、自分らしく生きられる尊厳が守られ、だれしもが持っている可能性が花開くことが基盤となるが、 尊厳の保護を支える「居場所」と一人ひとりの人間が可能性を実現する機会と選択肢を支える「舞台」という2つの場所がやはり重要なのだ。

     裏を返せば、自分の住む地域に居場所と舞台を得られない、または感じられないということであれば、その土地を離れてしまう可能性が高まる。

     自分達の地域に、居場所と舞台はととのっているだろうか。同様に、家族の中に、職場の中に、学校の中に、居場所と舞台と感じられる場や機会はあるだろうか。このまなざしが、誰もが幸せを実感できる社会に向けた礎となる。

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  • 福井県の男女共同参画

     2022年のジェンダーギャップ指数(GGI)が公表された。日本の順位は146か国中116位で、男女格差に関して、先進国どころか世界中でも最低に近い水準となっている。GGIを公表している世界経済フォーラムは民間の経済団体であり、国連の機関でも人権団体でもない。経済団体が男女格差を問題にしているのには理由がある。男女格差の小さな国ほど一人当たりGDPや国際競争力が高い傾向にあることが分かっているのである。男女格差が小さな国ほど合計特殊出生率が高という傾向も確かめられている。少子高齢社会に伴う労働力人口の減少、経済的な低迷の長期化、といった日本が直面する課題の克服のためにも男女格差の是正は急務である。
     GGIのスコアは、政治、経済、教育、健康の4分野から算出されているが、日本のスコアの足を大きく引っ張っているのが、政治(国会議員や閣僚の女性割合の低さ)と経済(女性管理職の割合の低さ、男女の賃金格差)である。管理的職業従事者に占める女性の割合は、日本では14.9%で、フランスの34.5%、イギリスの36.3%、アメリカの40.7%の半分にも満たない(「男女共同参画白書 令和元年版」内閣府男女共同参画局)。
     福井県の女性の就業状況について確認をしておきたい。H27国勢調査によると、共働き率は58.6%、女性の労働力人口比率は52.6%で、いずれも全国1位、女性雇用者に占める正社員の割合は53.9%で2位となっている。一方、女性管理職比率は13.6%で46位に低迷している。日本でトップレベルに女性が働いているのに、管理職比率だけはブービーなのが福井県である。H28社会生活基本調査によると有業の女性の1日当たりの家事・育児時間が2時間44分なのに対して、男性は20分に過ぎない。その結果として、有業の女性の1日当たりの余暇時間が4時間28分なのに対して、男性は5時間20分と、自由に使える時間に関して1時間近くの格差ある。子育て期には格差はさらに大きくなる。「女性が働いていてあたりまえ」の福井県で、家事や育児、介護も「女性が中心になって担っていてあたりまえ」になっているのである。2022年2月定例福井県議会で、杉本知事は、子育て支援施策を大幅に拡充する方針を踏まえ、「日本一幸福な子育て県『ふく育県』であることを宣言し、県民もとより全国の若い移住希望者から選ばれる福井県を目指したい」と述べている。福井県は出産・子育てと女性の就業継続の両立が進んでいるが、それを支えているのが女性の多重負担であることにも注意しておかなくてはならない。
     女性の多重負担と時間的なゆとりの無さが、キャリアアップに関するモチベーションの低下や断念につながっている可能性は高い。マミートラック(子育て中の女性が比較的責任が軽い仕事を任せられ、結果、キャリアアップが遅くなること)といった問題も存在している。福井県の幸福度のさらなる向上には、「共働き県」福井を、「共家事(トモカジ)県」であり、「共子育て県」でもあるように進化させていく必要がある。

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  • 自然災害による住宅被害と被災者生活再建支援

     日本は、国土の7割が山地や丘陵地であり、傾斜が厳しい地形が多い。また、日本の南東の海上では、熱帯や亜熱帯低気圧が発生・発達しやすく、勢力の強い台風や集中豪雨などにより、土石流やがけ崩れなどの土砂災害が起きやすい(※1)。

     8月5日、福井県内で発生した記録的な大雨は、県内の交通インフラや住民の生活に深刻な被害をもたらした。南越前町では、河野川の上流部から大量の流木や土砂が押し寄せた(※2)。今庄駅付近ではレールや踏み切りが浸水し、列車が不通になった。北陸自動車道や国道8号等の主要道路は、土砂崩れや浸水の影響で通行止めになった。懸命な復旧作業により通行可能となったが、度重なる豪雨でその後も土砂災害が起きている。濁流や床下・床上浸水で土砂にまみれ破壊された家屋の被害も著しく、住民やボランティア等による住宅復旧作業が続いている。

     ⾃然災害により⽣活基盤に著しい被害を受けた方への支援に「被災者生活再建支援法」がある。この制度は、都道府県が拠出した基⾦から⽀援⾦を⽀給し、被災者の⽣活再建を支援するものである。支援対象は、10世帯以上の住宅全壊被害が発生した市町村等で、支援金の対象世帯は、自然災害により(1)住宅が全壊した世帯、(2)住宅が半壊又は住宅の敷地に被害が生じ、やむを得ず住宅を解体した世帯、(3)災害による危険な状態が継続し、住宅に居住不能な状態が長期間継続している世帯、(4)住宅が半壊し、大規模な補修を行わなければ居住することが困難な世帯、(5)住宅が半壊し、相当規模の補修を行わなければ居住することが困難な世帯である(※3)。

     被災者は、市町村等が「罹災証明書」を発行することを確認したのち、居住地の市町村担当課に「罹災証明書」を申請し、証明書を得てから支援申請を行う。税金や国民健康保険料の減免、見舞金や支援物資の支給、国および基金から最高300万円の被災者生活再建支援金の給付、災害援護資金の借受等の支援が受けられる。自分だけで頑張ろうとせず、是非必要な支援は受けて欲しい。

     人は、住み慣れた自宅、使い慣れた家財、見慣れた景色、家族や近隣住民とのかかわりの中で、安心・安全な生活を営み、自分らしさを形成している。突然の自然災害で、住み慣れた住まいや住まい方が変わってしまった方々の苦悩は計り知れない。

     被災した方々の健康と一日も早い生活の再建を心からお祈りしている。

    (看護福祉学部 成田光江)

    ※1 一般財団法人 国土技術研究センターhttps://www.jice.or.jp/knowledge/japan/commentary10

    ※2 気象庁によると、5日午前8時半までの24時間降水量は、南越前町今庄で57.5ミリを記録し、観測史上最大となった。

    ※3 内閣府 防災情報のページhttps://www.bousai.go.jp/taisaku/seikatsusaiken/shiensya.html

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  • 自己変革と連携、待ったなし

     中小企業庁が公表した『2022年版中小企業白書・小規模企業白書』(以下、白書)のテーマは、「自己変革力」および「事業の見直しと地域内連携」である。
     白書では、新型コロナウイルス感染症の流行や原油・原材料価格の高騰など、厳しい外部環境に直面する中小企業・小規模事業者が、足元の事業を継続し、その後の成長につながる方法のひとつとして「事業再構築」※1を挙げている。また、中小企業の成長を促す取り組みとして、オリジナルの付加価値を有し、適正価格が付けられる価格決定力を持つ「ブランド構築」や、従業員の能力開発のための人的資本への投資をはじめとする「無形資産投資」に注目している。
     「事業再構築を行っている企業の3割以上で売上面の効果がすでに出始めている」「ブランド構築・維持を図る取り組みを行っている企業では、自社ブランドが取引価格に寄与している割合が高い」「計画的なOJT研修、OFF-JT研修をいずれも実施している企業ほど売上高増加率が高い傾向」など、東京商工リサーチが実施した「中小企業の経営理念・経営戦略に関するアンケート」(2021年2月)の結果を参考に「事業再構築」「ブランド構築」「無形資産投資」が必要・重要とした。
     「無形資産投資」に関しては、昨年(2021年7-8月)、福井県立大学地域経済研究所が福井県から受託して、福井県内企業を対象に行った「福井県企業の事業活動に関するアンケート」(有効回答297件)でも同様の結果が得られている。具体的には、未来投資※2の実施の有無とその種類※3を尋ねたもので、「人材育成を行っている企業ほど、業況が右肩上がりの傾向が強い」ということが分かったのである。
     他方、企業規模が小さくなるほど経営や事業に関する知識やノウハウの不足、販売先の開拓や確保といった様々な課題に直面していることが予想される。「事業再構築」「ブランド構築」「無形資産投資」の重要性が理解できたとしても、すべてを自前で行うことは困難といえよう。
     加えて、DXやGX、健康社会、レジリエンス社会といった社会変化とも向き合い、自社の利益追求だけではなく、事業を通じて多様化する中長期的な社会・経済課題を解決していくことが求められるようになる。ゆえに、事業継続、事業成長の難易度が高まり続ける中では、他者や外部との連携・パートナーシップ関係を強化することで「自己変革力」を高めていくことが、さらに望まれるのではないだろうか※4。地域企業の「自己変革」「連携・パートナシップ」の強化は、待ったなしである。

    ※1 新たな製品やサービスを提供したり、製造や提供方法を相当程度変えることなど。
    ※2 数年先の収益確保や増加のために先行して行う投資のこと。
    ※3 研究開発や人財育成、設備整備、マーケティングなど
    ※4 福井県立大学では、地域との連携を進めるための全学的な組織として「福井県立大学地域連携本部」(http://www.fpu.ac.jp/renkei/)を設置しております。「自己変革」「事業の見直し」「人財育成」「共同研究」な ど、お困りのことがありましたら「地域連携本部」または「地域経済研究所」 にお問い合わせください。

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  • 包摂的成長と地域

     6月11日と12日の2日間、埼玉にある城西大学にて、産業学会の第60回全国大会が、久しぶりに対面で開催された。産業学会では、鉄鋼業や自動車産業など、個別の産業を取り上げ、深堀りすることが多いのだが、「たまには産業を横断するようなテーマを取り上げたら」と口を滑らせた結果、私自身が「動揺する国際政治と日本の産業政策の課題」と題した報告を行うはめになってしまった。報告では、2021年6月の経済産業省産業構造審議会総会で提示された「経済産業政策の新機軸―新たな産業政策への挑戦―」を取り上げたが、その後の討論でも、これまでの「官主導の伝統的産業政策」と「民主導の構造改革アプローチ」との違いが論点になった。日本の学界では忘れ去られていた産業政策に関する議論が、にわかに登場してきたことに、私自身は今でも当惑を感じざるを得ないが、背景には、「中国製造2025」に対抗する米国バイデン政権の成長戦略や、ポストコロナにおけるグリーンやデジタルへの移行を進めるEUの産業政策があることは確かなように思われる。そして、もう1つの要因として、従来の産業政策では扱ってこなかったムーンショット的な研究開発や中長期的な社会的課題への対応に迫られていることがあげられる。
     こうした背景をもとに、産業構造審議会の下に「経済産業政策新機軸部会」(座長:伊藤元重東京大学名誉教授)が設けられ、2021年11月~22年4月までに8回もの会議が開催され、中間整理案が取りまとめられた。そこでは、目指すべき経済社会に関して、「経済成長・国際競争力強化および多様な地域や個人の価値を最大化する包摂的成長の両者を実現する」と表明され、ミッション志向型の産業政策として、①炭素中立型社会、(2)デジタル社会、(3)経済安全保障、(4)新しい健康社会、(5)災害に対するレジリエンス社会、(6)バイオものづくり革命、といった6項目の実現が掲げられた。
     ところで、4月12日の第7回「新機軸部会」では、包摂的成長を中心的なテーマとし、中小企業や文化・スポーツとともに地域が取り上げられ、私は「包摂的成長における地域の意義」と題した報告を行った。報告の準備で、inclusive growthについて調べてみると、国連やIMFなどが地球規模での貧困や格差問題への対応として取り上げている事例が多く、先進国内では、イギリスの大都市内での貧困地区対策が目に付いた。地域間格差や条件不利地域への政策的対応については、戦後の国土政策や産業立地政策で長年取り組まれてきたものだが、「どの地域も取りこぼさない」というスローガンの下で、新たな政策をどう打ち出すか、なかなか難しいように思われる。
     その一方で、私はもう1つの見方に注目したい。すなわち、個性豊かな多様な地域が力を出し合うことで、新たな成長がもたらされるとするものである。ただし、多様な地域の組み合わせをどのようにしたらよいか、未解明な点が多い。包摂的成長と地域をどうみるか、こうした議論は始まったばかりで、それこそ対面での意見交換を繰り返して、内容を豊かにしていくことが求められるのである。

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  • 「沖縄の人口動向から地域の魅力について考える」

     今月も様々な報道がありました。「ダチョウ倶楽部」上島竜兵さんの逝去、国政選挙で選ばれた方々の問題発言の数々、東京スカイツリー開業10周年、「英語教育実施状況調査」結果の公表、「運転技能検査」の開始などなど。これらの出来事をめぐって個人的にいろいろ考えさせられましたが、本コラムでは迷った挙句「沖縄」を取り上げることにしました。といいますのも、今月15日(日曜日)は周知のとおり、沖縄が本土に復帰してからちょうど50年目という節目の日でした。私も今年、4年ぶりに「地域経済研究所」に戻ってまいりました。ちょっとした因縁を感じることもあり、ちょうど良いテーマかと考えた次第です。

     メモリアル・イヤーということもあり沖縄に関する記事や番組は平年より多くなっていると思いますが、現在放送中のNHKの朝ドラも沖縄が舞台の『ちむどんどん』。沖縄ことばで、チム(肝=心胸・心)が高鳴る様子を意味する状態のようです。かつて沖縄に旅行した際、『高等学校琉球・沖縄史』という教科書を国際通りにほど近い古本屋でたまたま見つけたので興味本位で買ってみたところ、自分が高校時代に学んだ“日本史”とはかなり異なっていることに、相当『ちむどんどん』したことを思い出します(使い方がちょっと間違っているかもしれませんが)。

     そんな沖縄には本土と異なる様々な特徴があります。その一つが「人口」です。5月は「子どもの日」、「母の日」がありますが、総人口に占める子どもの割合、母親の割合が47都道府県中最も高いのが沖縄県です。婚姻率や合計特殊出生率が本土返還以降、ずっと全国トップです。平成17年版の厚生労働白書のコラム「沖縄県の出生率が高い理由」では、(1)共同社会的な精神がまだ残っており、子どもを産めばなんとか育てていける。(2)男児後継ぎの意識が強く残っているので男児が生まれるまで産児を制限しないという説がある、と分析されています。政府刊行物にしてはかなり思い切った論考です。そして、出生数から死亡数を引いた自然増加数がプラスなのは、2016年以降沖縄県だけになっています。さらには、転入超過数(転入者から転出者を引いたもの)もプラスで推移していることから、沖縄は現在全国で唯一、人口が増加している県です。対照的に、自然増加数を大幅に上回る転入超過数によって人口を増やしてきた東京都では、コロナ禍によって転入超過が激減したことから、社人研による将来推計人口よりもかなり早いタイミングで人口減少に転じてしまいました。しなしながら、沖縄が単に“優等生”かというと、そうではありません。離婚者割合、嫡出でない出生や婚前妊娠による出生割合が高いことは、少なくとも“本土”では一般的に“良くないこと”とされています。平均寿命は他地域と比べて伸び悩んでおり、返還直後の男女とも全国1位から徐々に順位を下げています。

     このように多面的な顔を持ち、かつ変化の激しい沖縄ですが、人を引き付ける魅力は依然健在のようです。“沖縄は特別だから”と考える向きもありますが、しっかりと向きあってみると、地域の魅力とは何なのか、案外その本質が見えてくるような気がします。

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  • 「祭り」という文化

     福井県の東北部、奥越の地には2つの城下まちがあり、その一つが人口22千人あまりの小さなまち勝山市である。
     ところで、同市の歴史的遺産を一つ挙げるとすれば、それは「越国」の僧、泰澄大師によって確立された白山信仰の一大拠点、平泉寺が今もその姿を残していることであろう。最盛期には48社36堂6千坊を誇り、越前文化の中心的存在であったともいわれている。天正2年(1574年)に一向一揆勢により焼き討ちに合うが、その9年後の天正11年(1583年)、平泉寺に戻った僧たち(顕海僧正と、その弟子専海、日海たち)が平泉寺の再興に着手、現在残る平泉寺白山神社を建立した。その後、江戸時代にはこの地の大名たちから手厚い保護を受け白山信仰の拠点として、現在までその存在感をとどめている。
     また、この地は、全国でも貴重な恐竜化石の宝庫としても知られており、その拠点、福井県恐竜博物館には、コロナ禍前、年間100万人あまりの来場者が訪れたという。それと併せて、当地を代表する宝といえば、毎年2月の最終土日に開催される「勝山左義長まつり」を挙げなければならない。奇祭と呼ばれる「勝山左義長まつり」は、勝山藩主、小笠原氏が入封して以来300年以上の歴史があるといわれる。通常、市内の各地区には12基のやぐらが立ち並び、そのうえで色とりどりの長襦袢(ながじゅばん)姿に着飾った老若男女が独特のおどけ仕草で三味線、笛、太鼓、お囃子を披露し、その姿に多くの見物人が酔いしれ、コロナ禍前なら2日間で約10万人の来訪者を数えたらしい。
     ところで、全国的に名高い祭りには、神田祭、祇園祭、天神祭、ねぶた祭、七夕祭、竿灯祭など挙げればきりがない。普通なら日本全体で年間何十万もの祭りが催されるともいう。しかし、この祭りという文化はいったいいつ頃から始まり今に至っているのか。一説では、神話の世界まで遡りその原点が語られているそうだが、古代社会に始まり仏教伝来や神仏習合の時を経て多様な意味を持つようになった祭りが、庶民の間で娯楽として定着したのは江戸時代に入ってのことらしい。この頃から、神輿や山車行列、獅子舞、花火大会など現在でも馴染みの催しが多く見られるようになったと聞く。ただ、明治に入ると、新政府から発せられた神仏分離令によってその歴史が大きく変わることになる。終戦後は寺社とは無縁のイベントとしての祭りも増えているようだ。
     私の住む地域の秋祭りも、コロナ禍前の例年であれば賑わいが絶えなかった。ただ、一つだけ惜しいことは、地域の祭りも時代とともにその形が変化していることだ。神輿を担ぐ若集も、かつての胴巻き姿に法被、足には白足袋に草鞋(わらじ)といった出で立ちが崩れ、現代風にアレンジされた姿が目立つようになった。これも時代だから仕方ない。とはいえ祭りは文化、いにしえの形を受け継ぎ、守り、次の時代に伝えてほしいと思うのだが。とにもかくにも一日も早くコロナ禍がおさまり、前の祭りの姿を取り戻して欲しいものだ。

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  • 国連の世界幸福度報告は何を測っているのか?

     先日、世界幸福度報告の2022年の最新結果が世界に向けて発表された。日本は世界54位。では実際に、世界幸福度報告は何を測っているのか?残念ながらあまりそのことは理解されていない。このコラムでは、その内容の一端でもお伝えできればと思う。
     世界幸福度報告では、人々の主観的幸福(主観的ウェルビーイング)を測定する方法として「生活評価」と「感情」の2つを概念枠組みとして採用している。
     「生活評価」とは、“ある人の生活またはその特定側面に対する自己評価”のこと。0から10までの11段階の自己評価となり、回答した数字の平均値が国の「生活評価」の値となり、この値の国際比較が国際ランキングをつくる。この測定の仕方において、日本は世界54位/146国となる。
     もう一方の、「感情」とは、“ある人の気持ちまたは情動状態、通常は特定の一時点を基準にして測る”方法で、一人ひとりの感情体験に注目した測定方法である。肯定的感情(幸せ, 笑顔, 喜び)と否定的感情(心配, 悲しみ, 怒り)の両方の体験の有無を測る。肯定的感情の体験が多いほど、また、否定的感情の体験が少ないほど、幸せ・ウェルビーイング度が高いと見なす。日本は、肯定的感情では67位/146国、否定的感情では12位/146国。他国に比して、肯定的感情の体験が多いとは言えないが、否定的感情の体験が少ないという意味では世界12位ということで、安定的な幸福感が存在することがこの結果からうかがえる。
     また、主観的幸福を説明する要因として、「一人あたりGDP」と「健康寿命」の2つの客観要因と「社会的関係性」「自己決定感」「寛容性」「信頼感」の4つの主観要因を世界幸福度報告では測定してきている。日本の場合、客観要因である「一人あたりGDP」は28位/145国、「健康寿命」は1位/141国。主観要因である「社会的関係性」は48位/146国、「自己決定感」は74位/145国、「寛容性」は127位/146国、「信頼感」は28位/140国である。
     主観的幸福に関する測定には文化差があるため、何を尺度にするかによって順位が変動する性質を有しているが、日本社会が世界幸福度報告から学び、それを自分事・地域事としていくためにまなざしを向ける必要があるのは、「社会的関係性」「自己決定感」「寛容性」「信頼感」の4つの主観要因であろう。
     測定するだけでなく、ではいったい地域社会において「社会的関係性」「自己決定感」「寛容性」「信頼感」をどうすれば育むことができるのか。そのような対話が世界幸福度報告の結果を通じて生まれてくることを期待したい。

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  • 世界は「虚構」でできているのか

     いささか出遅れ気味ですが、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史(上下、柴田裕之訳、河出書房新社、2016)』の話をしたい。ハラリは、私たち「サピエンス」が地球を征服できた理由をサピエンスの「虚構を創作する能力」にあるとしている。サピエンスはこの虚構を不特定多数の者が信じることによって、大規模な集団行動をとれるようになり、ライオンなどの動物やネアンデルタール人など他の人類種に打ち勝ってきた。
     それでは「虚構」とは一体何か。それは「架空の事物」のことであり、具体的には伝説、神話にはじまり、宗教、貨幣、国家、人権、法律、正義、さらに自由主義や共産主義、資本主義といったイデオロギー、果ては自然科学に到るまで、ありとあらゆる事物が「虚構」だとされている。え! 科学も。ハラリによれば、近代科学は「進んで無知を認める意志」を持っている。どのような科学理論も神聖不可侵ではなく、常に新たな理論に取って代わられる可能性を持つというポパーの科学理論の反証可能性のような理由によって、科学も「虚構」の一つなのである。
     そしてハラリはこの「虚構」を創作し共通の神話として不特定多数のサピエンスの間に広めることができたのは言語のおかげだとしている。しかしそれでは、言語によって表現されるものは全て「虚構」であり、それは絵空事や夢幻も同然なのだろうか。
     この問いに対して、イエスかつノーだ、と答えたい。イエスである意味は、ハラリの主張するように宗教も人権も世界そのものが有する世界の形式であるわけではない。それらはサピエンスが「発見」したものではなく「発明」したものである。そして言語も世界そのものの形式ではなく、サピエンス史上最大の発明品に他ならない。その意味で、言語表現されたものは表現者の視点(ものの見方、世界観)から、表現者の関心によって、表現者のために、世界から切り出され構成されたものなのである。言語はサピエンスとは無関係にそれ自身独立に存在しているものそのものを表現することはできない。
     ノーである意味は、一切は言語による「虚構」だといっても、嘘偽りでも、誤りや間違いであるのでもない。つまり、この虚構は事実に対する虚構ではない。例えば人権は、確かに世界そのものの形式でもないし、永遠不変の真理としての根拠も、基礎も持たない。よって人権は守られなければならないことを私たちは、「知っている」のではなく「信じている」としかいえない。しかしこの信念は、「あなたの言うことを信じます」とか「この試合の勝利を信じています」といった信念とは異なる。
     自分の右手を見てほしい。それでは、それが自分の右手であることに根拠や基礎があるだろうか。何を持ってきてもこのこと以上に確実なことなどない。ウィトゲンシュタインは「これは私の右手だ」、「私は月に行ったことはない」、「大地は大昔から存在している」等の特殊な命題を世界像命題と呼んだ。世界像は私たちの一切の活動の基盤となっている。そして根拠付け、基礎付けには終わりがある。しかし世界像は一番の基礎であり、最終根拠である以上、その根拠を示すことも、何かに基礎づけることもできない。だからこそ最終根拠であり一番の基礎なのである。そして世界像は絶対的なものでも普遍的なものでもない。根拠も基礎もない以上世界像について「知っている」とは言えない。「信じている」としかいいようがない。したがって世界像は神話に属している。
     それでは世界像は絵空事だろうか。「これは私の右手だ」ことを疑うことができるだろうか。このことを疑うくらいならば、自分の精神状態を疑うべきではないか。このことを疑っていて、どうして車のハンドルが握れるだろうか。手すりに掴まることも、この文章を書くこともできなくなる。私たちは「これは私の右手だ」などと意識することなく、何の躊躇もなくこれを自分の右手として行為している。生活している。これが現実である。
     私たちサピエンスの現実は、それ自身独立に存在する実体によってできているのでも、事物背後にあって事物を事物ならたらしめている永遠不変の本質、言語でいえば言葉の背後にある意味なるものによって成立しているのでもない。絵空事というなら、これら実体や、本質、意味なるものこそ絵空事なのである。

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