福井県立大学地域経済研究所

2021年7月

  • 南越前町、今庄地区にみる地域おこし

     福井県中央部にある南越前町。この地は、海(河野地区)と山(今庄地区)、里(南条地区)といった三つの地区それぞれに固有の特徴を持つ人口1万人あまりの小さな町でもある。その中で今庄地区は、大半が山間地だけに、その厳しい環境を活かした蕎麦の栽培が盛んで、現在も「今庄そば」はこの地区一番の特産品として知られている。一説では、同地区の蕎麦は、約4百年前の慶弔6年、府中(現在の越前市)に赴任した本多富正公が京都伏見から「そば職人」を呼び寄せ、城下の人々の非常食として栽培させるとともに、大根おろしを蕎麦にかけ食べることを奨励、それが福井の「おろし蕎麦」の始まりだとも言われている。当地は季節の変化にともない寒暖の差が激しく、雪どけの良質の水に恵まれるとともに、霧が深い山間地はよい蕎麦を生む最適な環境を備えた場所であったことも蕎麦づくりが盛んとなった所以かも知れない。
     ところで、今庄地区と言えば、江戸時代に近江米原(滋賀)より越前今庄(福井)を経て、直江津(新潟)につながる北国街道の宿場町として栄えた地でもある。当地にあって古くから幾重にも重なる南条山地は北陸道最大の難所でもあり、山中峠、木の芽峠、栃ノ木峠、湯尾峠のいずれの山越えの道を選んでも今庄宿は避けて通れぬ場所であった。そのため、福井の初代藩主、結城秀康公は、北陸道を整備するにあたり、今庄を重要な宿駅として防御に配慮した街並みの整備を図った。こうして文化年間(1804年~1818年)には、北国街道に沿って南から北へ向かって、上町、観音町、仲町、古町、新町の五町が出来上がり、家屋が櫛の歯のように立て込みながら、街並みは1キロメートル以上に及んだという。江戸時代のある旅日記には、茶屋で田楽やそばが売られ、都なまりの言葉で呼び込みをする今庄宿のにぎやかな情景が記されている(「北国街道今庄宿」南越前町より)。宿場の中心部、仲町には、福井・加賀両藩の本陣や脇本陣、問屋、多くの造り酒屋や旅籠が立ち並び、天保年間(1830年~1844年)には今庄宿全体で戸数290余り、うち旅籠50軒、鳥屋15軒、茶屋15軒、酒屋15軒があったとされ、今も街並みには当時の宿場町の面影を感じ取ることができる。
     このように、古くから峠越えの道がすべて集まる今庄は、北国の玄関口として交通の歴史とともに歩んできた。ただ、明治に入ると江戸時代の宿駅制が廃止され、さらに陸運の手段が人力車や荷車に変わり、明治21年(1888年)には新国道(国道8号線)が開通。今庄宿は徐々にその活気を失っていく。
     こうした中、今年の5月21日、文化審議会は重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)として、この今庄宿を選定するよう萩生田光一文部科学相に答申した。江戸時代に宿場町として栄え、昔ながらの地割りや、重厚感のある町屋が立ち並ぶ歴史的な町並みが評価されたのである。対象となるのは今庄宿のほぼ全域の旧北国街道約1.1キロ区間、約9.2ヘクタール。エリア内には昭和30年代以前に建てられた「伝統的建造物」の対象が約160戸あり、そのうち景観の維持・復元について所有者の同意が得られた118戸が同建造物として登録されることになる。これにより、今庄に今も現存する「旅籠 若狭屋」、「脇本陣 京藤甚五郎家」、「社会教育の拠点 昭和館」などが、これまで以上に注目を集めることになるであろう。こうした事実は、10年以上前から町並み保存活動を続けてきた同地域にとって大変喜ばしいことでもあり、この重伝建の指定が新たな町おこしの起爆剤になることを大いに期待するところである。
     コロナ禍で将来が危ぶまれる時代、ひょっとしてこれからの日本の再生は、こうした地方圏の足下にある資源の磨き上げにかかっているのかも知れない。

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