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「自由な貿易」から「公正な貿易」へ
コロナ後の世界経済は、ワシントンコンセンサスによるグローバリゼーションが推進される中で顕在化した「富の偏在」や「格差の拡大」の是正に向けた制度改革とともに、「自由な貿易」から「公正な貿易」へとパラダイムシフトが進む可能性がある。
そう思う理由は、いくつかある。まず、世界経済全体で見た所得再分配上の不平等があまりにも拡大している点だ。1980年と2016年の世界の家計所得の伸びを比較した調査によると、この間に増加した世界のトップ1%の所得は下位50%の2倍以上に及ぶ。また、別の調査によれば、世界でもっとも裕福な8人が保有する資産は、下位半分が保有する資産とほぼ同じだ。そして、そのうち6人が暮らす米国では、240万人に当たるトップ1%の富裕層が、数ではその50倍の労働者階級全体の倍の所得を手にするに至っている。最後の米国での調査においては、過去40年間で両グループへの富の配分は逆転したことも示されている。しかも、この間、労働者の実質賃金は殆ど変わっていないのだ。こうした事実は、自由化や規制緩和、さらには、富裕層や大企業への減税によって、富める者が富めば、いずれ、貧しい者にも富が浸透する、とした「トリクルダウン効果」はいつまで待っても現れないことを如実に示すこととなり、かつてないほどに人々の間に不平等感が募っているのである。
格差は国家間レベルでも広がっている。経済理論上は、自由貿易は競争力が弱い国においても、その国の中で比較優位性の高い分野に特化することで、社会的余剰(豊かさ)を増やすことができる、はずであった。しかし、現実には、グローバリゼーションの結果、急速に経済発展したのは、中国やASEANなどごく一部の新興・途上国に過ぎない。それは、貿易のメリットを途上国にもたらすには、市場アクセスだけでは不十分なためである。たとえば、EUでは、後発途上国(LDC)に対して、武器以外のすべての製品の輸入関税を免除する優遇制度(EBA)を採用しているが、EBA対象国であるタンザニアからEUへの輸出は増えていない。これは、後発途上国の輸出機会を活かすには、外資の導入などを通じた、生産能力の拡大や技術支援が必要なためである。この点において、アフリカにおける中国の一帯一路構想は、一定程度評価できる。しかし、「債務の罠」の問題を抜きにしても、アフリカへの援助に際して政治的な制約を課さない中国の姿勢には、アフリカ側に好意的な印象を与える一方で、アフリカ域内の汚職や人権侵害などを助長する恐れがあるとして危惧する声が上がっているのも事実である。
また、昨年、『ネイチャー・コミュニケーションズ(Nature Communications)』に掲載された論文によると、環境に与える「富」の影響が深刻なレベルに達している。これまで、環境にもっとも大きな影響を与える要因は「消費」と「技術」だと考えられてきたが、ここ数十年で、豊かな国の消費者による「消費」が急拡大した結果、技術革新を通じて削減できるレベルを遥かに超えてしまったのである。つまり、地球上の生活に関連した温室効果ガス排出量の10%を約40億人の「世界における収入下位50%」が生み出しているのに対して、その100分の1に過ぎない4000万人の「世界でもっとも裕福な0.54%」が生み出す同排出量は14%に達しているのだ。さらに、先進国に住む多くの人が含まれる世界のトップ10%の富裕層は環境への影響のうち25~43%の責任を負っている。
ところで、不思議なのは、際限のない「富」への執着が社会的問題を引き起こしている、という点である。なぜなら、ある一定以上の水準を超えると、所得の伸びは幸福度の高まりに寄与しなくなる、とした「イースタリンのパラドックス」が示唆するように、これまで「富」への執着は所得の増加とともに薄れていくものと思われていたからである。しかし、今、現実の世界で起こっているのは「地位消費」(positional consumption)という概念による正反対のメカニズムである。即ち、人は基本的な欲求を満たすと、社会的希少性によって少数の人しか入手できない「地位財」(positional good)を求めだすというのだ。そう考えると、米ベンチャー企業が2022年に開業予定の「宇宙ホテル」への滞在料金が、12日間で10億円であるにもかかわらず、すでに、4か月先の予約まで完売というのも決して不思議ではない。しかし、今後、先進国の人々が一斉に地位財を求めだすと、地球環境の破壊はとめどなく加速していくことが懸念される。そのため、「もっとも裕福な人々に課税すること」や「弱いエコシステムと貧しい人々に投資すること」が必要とする同論文の主張は、ロールズの「正義」の概念とも合致しており、検討に値する。
次に、国際貿易に関して問題と思われるのは、アフリカにおける中国の「一帯一路」にみられるように、新興・途上国の中には、欧米先進国とは異なる価値観や慣習によって、開発や貿易を通じて人権侵害や環境破壊が行われている可能性があることだ。現行の国際ルールでは、たとえ、コスト削減のために人権侵害や環境汚染に加担しているとしても、それに対してペナルティを科すのは難しい。しかし、グローバリゼーションの制度的欠陥が鮮明となった今、世界経済秩序に関する新たな制度設計の構築が必要となっている。具体的には、「自由な貿易」から「公正な貿易」への変更・修正である。 では、「公正な貿易」とは何か。ダンピング関税を例に取ると、これまでは、結果としての価格の正当性がチェックされてきた。たとえば、中国のWTO加盟時に、貿易相手国は最長15年間、中国を「非市場経済」として扱うことが認められた。それによって、輸入国は中国からの輸入品に対して反ダンピング税を課すことが容易になった。コストの割高な国の生産費用を中国における生産費用として代用することができるためだ。現在、中国がすでにWTO加盟後15年を超えたことで、多くの国は中国に市場経済としての地位を与えているものの、米国とEU、そして日本は未だに認めていない。ただ、「市場経済」としての承認の遅れは、単に、貿易(覇権)戦争の悪化を招くだけとの指摘がある。そこで、これから目指す「公正な貿易」では、これまでのような、結果としての価格の正当性というよりも、そこに至る経緯が重要となってくる。換言すれば、「ソーシャルダンピング」や「エコロジカルダンピング」の概念を、国際的な貿易ルールの中に反映させるべき、ということである。実際、現在協議中の、中国とEUとの投資協定では、中国の人権問題も俎上に上がっている。また、EUは温暖化対策が不十分な国からの輸入品に価格を上乗せする「国際炭素税」を2023年までに導入する方針を打ち出している。こうした政策は輸入価格の上昇につながることから、消費者余剰(消費者の利益)を減らすとして反対意見が出ることが予想される。けれども、我々がほんの少し我慢することで、国際間の不平等や環境破壊が抑制され、世界全体の総余剰(万人の利益や満足感)は増えるのである。ならば、我慢した分だけ幸せを分かち合えると考え方を改めてはどうか。 以上人の幸せを測る国際標準とは?
“0段目はあなたにとって「最低の生活」、10段目はあなたにとって「最高の生活」。あなたの生活は今、ハシゴのどの段階にいますか?”読者の皆様はこの質問に0-10のどの数字を選ぶだろうか。ぜひ一度、ご自身の中で回答してもらえればとおもう。
この質問は、人の幸せを測る現在の国際標準であり、キャントリルの階梯と呼ばれる方法だ。人生をハシゴと見立て、主観的な幸福度や満足度を測定する際に世界中で最も活用されている。例えば、国連機関が実施している世界幸福度調査(World Happiness Report)の世界ランキングも、この測定方法の結果に基づき公表され、マスコミを通じてそのランキングは注目の的となっている。最新の2020年の結果では、日本は153国中62位と低迷し、北欧諸国が上位を占めている。
当然ながら上位国の常連である北欧諸国から学ぶことは多く、また日本は「寛容度」や「人生における選択の自由度」など、改善しなくてはいけない課題があることに論を待たない。しかし同時に、人生をハシゴと見立て、上にあがればあがるほど幸せであるという考え方・測定方法は本当に国際標準として普遍的なものであるのか、ということには議論の余地が多分にある。
私自身はブータン王国で人の幸せを測るGNH調査にご一緒させてもらったが、その時に実感したことがある。ブータンのように中庸の文化を持つ国において、ハシゴにおける9や10を回答する者の割合は少ない。真ん中に位置する5を基準にしながら、よい状態と感じていれば、6や7を選ぶ傾向がある。2015年のブータンの調査では、この国際標準の質問での回答の平均値は6.88だった。また、調査において日常に感じている感情を尋ねる質問もあるが、ブータン人が感じてる一番多いポジティブな感情は「おもいやり(Compassion)」であった。刺激の強い高覚醒の幸せというよりも、平穏や安寧という言葉が似合う幸せの存在をブータンからは感じた。上にあがればあがるほどいいという価値観が幸せの唯一の源泉ではなく、文化的に必ずしも当てはまらない国も多いということを認識する必要がある。
そこで現在、日本の公益財団法⼈であるWell-being for Planet Earthを中心に、西洋の価値観だけでなく日本を含む多様な地域の価値観も尊重し、新しい国際基準となる幸せ(ウェルビーイング)の測定方法の検討を進めている。様々なテーマでの議論が続いているが、一番注目したいのが、人生の調和・ハーモニーやバランスがとれているという幸福感を測定することへの挑戦だ。現在の幸せ測定の国際標準をハシゴ型と捉えるのであれば、振り子型の調和やバランスを重視した測定方法と言える。
幸福度の議論はどうしても結果としてのランキングにのみ視線があつまってしまうが、ぜひ何をどのように測っているかにも一緒に注目してもらえれば嬉しい。福井県の在宅医療・介護と地域包括ケアシステム
わが国は、住み慣れた地域で自分らしい生活を維持・継続するために地域包括ケアシステムを推進している。福井県でも、在宅医療・介護を必要とする住民が安心して地域で療養生活を継続することができるよう、地域包括ケアシステムにおける在宅医療・介護連携をシステム化している。本コラムでは、「在宅医療・介護連携に関する市民アンケート調査」(大久保清子、2019年11月)結果の一部を紹介し、自宅で楽しく豊かな療養生活を送るために必要なポイントをお伝えしたい。
本調査は、2019年11月時点で福井県内に居住する市民約2,400名で、居住地や性別、年代(20~80歳代)を無作為に抽出した。回収1964部、回収率は82%である。男性22.4%、女性77.2%、不明0.4%で、40歳代が21.3%と最も多く、次が30歳代、50歳代の20.3%である。家族構成は、2世代世帯(子ども)33.7%、3世代世帯21.9%、夫婦のみ世帯15.6%、2世代世帯(親)13.6%、単身世帯12.1%であった。
回答者が感じている「自宅で療養するときの不安」は、「精神的な負担」が79.0%と最も多く、次に「経済的な負担」70.8%、「仕事と介護の両立」48.9%であった。医療や介護に関する身近な相談相手で最も多いのが「家族」88.8%で、次に「友人・知人」40.1%であった。在宅医療を実現できない・希望しない理由で最も多かったのは、「介護する家族に負担がかかる」83.3%であった。しかし、人生の最期を迎えたい場所は「自宅」が48.4%と最も多く、次が「ホスピスなどの緩和ケア施設」23.0%であった。在宅医療の認知度で見ると、在宅医療を良く知っている人の方が自宅で最期を迎えたいと考える割合が高く、余命で大事にしたいことは、「家族や友人のそばにいること」71.2%、「家族の負担にならないこと」67.0%、「痛みや苦しみがないこと」61・0%であった。
この結果をみると、県民は家族や友人をとても大事にしており、最期まで家族や友人とかかわりながら自宅で療養生活を送りたいと思っているようである。しかし、家族に負担をかけない、痛みや苦しみを軽減するため施設に入所しようと考えていると思われる。在宅医療は、訪問看護や介護などの多職種や近隣住民とも連携し、その人・その家族らしい療養生活を支えていくものである。在宅医療を良く知っている人が自宅で最期を迎えたいと考える割合が高いのは、それができることを知っているからであろう。自宅で医療や看護・介護を必要とする方は、自分一人ですべてを抱え込むのではなく、日常的なケアは在宅医療や看護・介護の専門職に任せ、家族や友人が楽しく過ごすための豊かな時間と空間をつくってみてはどうだろう。その実現に向け、近隣の訪問診療や訪問看護・介護事業所、地域包括支援センター等に相談し、福井県の多職種連携システムを活用して欲しい。福井県の幸福度再考
一般財団法人日本総合研究所が発表している「全47都道府県幸福度ランキング」で、福井県は2020年も総合1位に輝いた。同ランキングは2014年から隔年で実施されており、福井県は開始以来、4連続で総合1位の座を守り続けている。同時に、ランキングの算出方法に関して、次回からは統計指標に依拠したものから、幸福度に関する住民の行動や実感を重視する方向に変更することも明らかにされた。この変更で福井県の順位がどのように変化することになるのか、期待と不安が交差するところである。
振り返ってみれば、統計指標から客観的な基準で算出された幸福度や暮らしやすさに関して、福井県は無類の強さを誇ってきた。経済企画庁が1994年から1999年まで公表していた「新国民生活指標」(「豊かさ指標」、「暮らしやすさ指標」などとも呼ばれた)でも、福井県は6年連続で第1位に輝いている。貨幣的な指標では捉えきれない生活の「豊かさ」を、「住む」、「費やす」、「働く」、「育てる」、「癒す」、「遊ぶ」、「学ぶ」、「交わる」の8つの指標から測定したランキングである。2011年に刊行され話題になった『日本でいちばん幸せな県民』(幸福度指数研究会、PHP研究所)でも、総合ランキング1位はやはり福井県であった。都道府県レベルのランキングではないが、東洋経済が刊行している『都市データパック』では、800近くある日本の市の「住みよさランキング」が公表されている。算出に大型小売店店舗面積といった指標が使われているため、郊外に大型ショッピングセンターがオープンすると順位がジャンプアップしたりすることもあり、変動の目まぐるしいランキングなのだが、福井市、坂井市、鯖江市あたりはベスト20の常連になっている。
いずれも統計指標から客観的な基準で算出されたランキングではあるが、算出の主体によって使われる指標や計算方法は少しずつ異なっている。指標の数値そのものも年次変動を繰り返している。言い換えれば、その程度の違いであれば、ものともしない抜群の強さを福井県は示してきているのである。中央省庁のキャリア官僚、大学の研究者、シンクタンクの研究員とそれなりの知的能力を備えているはずの人たちが算出した数字が、どれもこれもまったくの的外れということも考えにくいだろう。
一方で、こうした数字上の強さに県民の実感が伴っていないという声も少なくない。福井県が地上の楽園というわけではなく、すべての県民があらゆる局面で幸せに満ち満ちた日常生活を送っているなどということはあり得ない。多くの県民がさまざま不満や生きがたさを抱えていても当然だろう。ただ、それにしても、数字上の幸福度の高さと生活実感のギャップを指摘する声を耳にする機会が多いように感じている。以下では、その理由についていくつかの観点から検討してみたい。
個人的には、田舎コンプレックスが幸福度の高さを素直に受け入れられなくしているような気がしてならない。今でこそ福井県の数字上の強さに誰も驚かなくなっているが、1994年の経済企画庁の発表は、この手のランキングの嚆矢ということもあり、かなりの意外性をもって受け止められたことを記憶している。福井県が1位に選ばれただけでなく、東京を除く首都圏の地域が軒並み下位に沈んだことも、その一因となっていたようだ。福井県が1位をキープし続けた6年間、最下位に沈み続けたのは埼玉県であった。「新国民生活指標」の妥当性そのものが、議論の的になることも少なくなかった。ニュース・ステーション(当時人気の高かった報道番組)でもそのあたりが取り上げられ、「遊ぶ」の項目に「人口当たりのパチンコ店数」が使用されていることに触れ、キャスターの久米宏氏が「パチンコ屋の数が多いと暮らしやすいんでしょうか」と例の皮肉たっぷりの口調で批判していたのを憶えている。この時点では自分が福井県で暮らすことになるとは夢にも思っていなかったのだが、滋賀県の小さな町で暮らす田舎者の一人として、「暮らしやすさで田舎の後塵を拝するのが、都会の住民にはこんなにも受け入れがたいのか」と驚き呆れたことを鮮明に記憶している。「福井のような田舎が日本で一番、幸福で住みやすいはずがない」という先入観は、都会に対する劣等感とあいまって、福井県民の間にも多かれ少なかれ共有されているのではないだろうか。奥ゆかしさは福井の県民性の美質の一つだとは思うが、住みやすさに関しては夜郎自大にならない程度にもう少し自信をもってもいいような気がしている。
次に、これは以前のコラムでも触れた論点だが、福井県民が福井県の暮らしやすさに気づきにくいという側面もあるだろう。福井県は定住性が高く、県民の多くは福井県外で暮らした経験に乏しい。このことが、他府県と比べて福井がどうなのかに関して、具体的にイメージすることを難しくしている。例えば、通勤時間の短さに幸せを感じている福井県民がどれほどいるだろう。マイカーを利用してドア・トゥー・ドアで片道30分以内という通勤スタイルは(SDGsという観点からは問題含みかもしれないが)、首都圏のベッドタウンの住民からは垂涎ものだと思うが、その恩恵はほとんど意識されていなのではないだろうか。満員電車で片道1時間半近くすし詰め状態を余儀なくされるという経験がないのだから、気づきようがないのかもしれないが、まさに雲泥の差である。1日につき2時間程度の差なので、年に250日通勤するとして、20年間その生活を続けると、合計で10000時間ほどの違いになる。ざっと計算で400日以上に相当し、1年を軽く超える差になる。20年につき1年あまりの可処分時間の差は見過ごすには大きすぎる気がするが、定住性の高さゆえに福井県民の意識には上りにくい。子育てのしやすさにしても、その実感が薄すぎるような気がしてならない。筆者は関西から福井県に移り住み、福井県で子育てをした人間だが、県内でベビーカーを押していて嫌な顔をされた経験が本当に「ただの一度もない」。このことがどれほど特筆に値するかは、福井県でそれを当たり前のこととして享受し続けてきた人には実感できないだろう。子どもたちの通学時の交通安全の立ち番やボランティアの方々の姿が、地域に見守られて育っているという安心感をどれほど育んでいるのかも、福井県ネイティブには当たり前すぎてピンとこないのではと思う。当たり前のことは当たり前すぎて、そのありがたみを実感しにくいものなのだ。
福井県民が幸福度を実感しにくい理由としてよくあげられるものに、多様な価値観や生き方に対する不寛容や人間関係のしがらみの強さなどがある。こうした課題を克服していくことの重要性を過小評価するわけではないが、その前提として確認しておくべきことがあるような気がする。筆者は、福井県の暮らしやすさを支えている大きな要因として、家族間のつながりや地域の人間関係のネットワークの緊密さがあると考えている。血縁(産む生まれる)や地縁(同じ地域に住み合わせる)といった結びつきは、運命的で変更が容易でないことを特徴としている。こうした選択性の低い関係を基盤とする結びつきをソーシャルキャピタル論では結束型と呼んでいる。これに対して、サークルやクラブへの加入、ボランティア活動への参加のような興味や関心の共有に基づく選択性の高い結びつきは架橋型と呼ばれる。福井県の強みは結束型の結びつきの緊密さにあると考えるのだが、こうした結びつきには匿名性の低さや同調圧力の強さといったダークサイドも付きまとう。これとは裏表の関係になるのだが、多様な価値観や生き方に対する寛容さは他者への無関心と紙一重でもある。近代的な価値のチャンピオンである自由と平等に関して、完全に両立させることは原理的に不可能であることが知られている。完璧に自由でかつ完璧に平等な社会は望んでも不可能であり、両者のバランスに関するコンセンサスをどのように形成するのか、そのバランスをどのように実現するのか、が現実の課題となる。幸福度の実感をどうやって高めていくかに関しても、「あれもこれも」の完璧な両立はないものねだりで、コンセンサスやバランスの問題であるといった認識が適切なのではと考える。結束型のつながりにも、架橋型のつながりにも、それぞれ一長一短があり、それを踏まえたうえで、さらに2つのつながりをどう醸成し、どうバランスさせていくのか、といったかなり込み入ったチャレンジが必要とされる。ただ、容易ではないということに必要以上に悲観的になることもないだろう。血縁的な結びつきに関して、福井県民が創出してきた三世代近居というライフスタイルは絶妙なバランスのとり方だと考えている。
田舎コンプレックスを払拭し、すでに備わっている暮らしやすさを再確認しつつ、新しい局面を切り開いていくことは、困難ではあるが十分にやりがいのあるチャレンジだろう。「コロナ禍の人口、コロナ後の日本」
コロナ禍のもとで人口動態が激変しています。
日本全体における出生数は、近年の減少傾向がコロナ禍においても継続しています。今年に入って登録される出生届は昨年の妊娠によって生まれてくる赤ちゃんがほとんどなので、コロナの影響がダイレクトに出生数に反映されるわけではありませんが、昨年の婚姻件数が多かったことからすると今年の出生数はもう少し多くなってもおかしくはありません。ちなみに、昨年の婚姻件数が多かった要因は“令和婚”によるものです。それでは、コロナ禍が出生動向にまったく影響を及ぼさないかいうと、そうとも言えません。今年5月以降の婚姻件数は一昨年と比べても大幅に減っており、来年以降の出生に少なからず影響を及ぼすことでしょう。加えて、市区町村によっては今春以降の妊娠届が減っているという報告がされています。他方で、死亡数は従来予測に反しあまり増えていません。そもそも人口の高齢化はコロナ禍でも確実に進行しているので、死亡率がこれまでと同じであれば死亡数は増えていくのが必然です。さらに、志村けんさんや岡江久美子さん(ご主人は福井県出身の大和田獏さんでしたね)などの著名人をはじめ新型コロナ感染が直接死因である累計死亡者数、ならびに女性の自殺者数の増加等の報道を目の当たりにしているので、今年に入ってからの死亡数が増えているような錯覚に陥っても不思議ではありません。しかしながら実際には、インフルエンザによる死亡者数が大幅に減少していることもあり、昨年末以降の死亡総数は推計を大きく下回っています。その結果、出生数を死亡数が上回ることで生じる人口の自然減の規模もかなり抑えられた状態になっています。それだけに、来年以降の揺り返しが危惧されることころです。
日本全体の人口動向を観測するには、さらに国際人口移動についても言及しないといけないのですが、当コラムの紙幅を考慮し、別の機会に詳しくお話しできればと思います。
最後に、コロナ後における地域人口の動向についても解説いたします。総務省統計局は今年の6月以降、コロナ禍における人口の地域間移動の状況を「住民基本台帳人口移動報告」を通じて詳報しています(http://www.stat.go.jp/data/idou/index.html)。東京都への転入者数から東京都からの転出者数を引いた転入超過数は、前年同月比でマイナスとなっています。人口の東京一極集中が小休止した状態です。東京都における転入超過数の減少は過去にも何度かみられます。直近では、リーマンショック後に大幅な減少が観測されています。逆に、福井県をはじめとする多くの県では、転出超過には変わりないものの、その規模は月ごとに縮小しています。
コロナ禍における地域間人口移動はこれまでと様相が明らかに違うのですが、それでは今後どうなるのかと問われると答えに窮するところです。拙速に私見を申し上げると、有効なワクチンが開発されるなどをきっかけとしてコロナ禍が早期に終息する場合、概ね元の人口動態に戻ると思われます。もちろん、緊急事態宣言の発令を機に突貫工事的に始まったテレワークやリモート会議や遠隔授業などは修正を加えながら定着していくとは思われますが(世界の潮流からは相当遅れた感はありますが・・・)、東京への人口集中や婚姻、出生の動向はさほど変わらないでしょう。なぜなら、今回のコロナ禍が、少なくとも日本においては多くの人びとの価値観を変えるほどには未だ影響を及ぼしていないようにみえるからです。もし今コロナ禍が去れば、Go To キャンペーンで堰を切ったように人びとは活動を再開し、電車や飛行機の混雑具合も概ね戻り、東京オリンピックもいろいろ変更はあるでしょうが何とか開催できそうです。“コロナ”は過去出来事として、“鬼滅”と並んで令和2年の流行語大賞となるでしょう。一方、コロナ禍が長期化した場合の経済的ダメージは計り知れず、給付金や補助金といった形で行われてきたこれまでの緊急避難的な公的支援では、現在の膠着状態さえ保てなくなるでしょう。今回のコロナ禍がどのような終結を迎えるのかにかかわらず、私たちには今すぐ始めなければいけないことがあると考えています。今後重ねて到来することが予想されるその他の災禍についても直視することから逃げず、将来世代に継承する価値のある“新しい日常”観のようなものを私たち一人一人が真摯に考え、コロナ後には地道に実装を進める準備をしておくことです。人と人との繋がりを大切にすることも大切だと思います。NHK連続テレビ小説「エール」の最終回で主人公・古山裕一もそう言っていたような気がします。コロナ禍における地域企業の状況から、企業経営の今後の方向性を探る
今般、福井県立大学では、コロナ禍における地域企業の状況と今後の地域企業のあるべき姿、方向性を探るべく、福井県内3,000社の企業に郵送によるアンケートを実施し、1,100社余りの企業から回答を得て、その実態並びに今後の地域企業の方向性を考察することができた。
まず、コロナ禍での地域企業の経営状況についてみると、2020年上期(1月~6月)における業況は、県内の70.4%の企業が「悪くなった」と答えている。ただ、売上げ状況をみると、全体の約4分の1が5割以上減少している一方で、約4分1は変わらない或いは増加しており、回答企業は今回のコロナ禍でも底堅く持ちこたえた企業が多かったようだ。また、資金繰りについても、5割弱の企業で「資金調達なし」(26.5%)や「自己資金」(18.4%)で賄ったと答えており、底堅い地元企業の経営状況がうかがえた。こうした中、今後の事業継続については、「継続」すると答えた企業が93.6%を占め、「休業」、「廃業」、「売却」を考える企業はわずか1.4%と少ない。つまり、今後も主に既存事業を軸に事業展開を続ける企業が多いのではないか。さらに言えば、経営戦略上は多角化するにしても今のビジネスに関連する分野で、経営資源をじっくり見極めながら新事業を考えるインサイド・アウト型の企業が多いものと思われる。一方、今回の調査では、地元企業が考える今後の成長産業についても尋ねている。その回答結果をみると、AI、ロボット、ICTなどのデジタル系分野と自然災害や感染症から身を守る、いわゆる命を守る産業分野への期待が高いことがわかった。
こうした結果から、地域産業・企業の今後の方向性を検討すると、おおよそ5つの方向性が浮かび上がる。
まず、第1の方向性だが、それは“ニューノーマル”時代に向けた新たなビジネスモデルの構築、所謂、つながるビジネスを構築すること。今回の新型コロナウイルス感染症拡大により、インターネットを通じて物事を行う動きが進んだ。すなわち、医療、教育、スポーツ、消費活動など様々な分野で、ネット上に広がるバーチャルな空間でオンラインビジネスばかりが活況を呈する姿を確認できた。それは、まさに非接触型社会への移行を意味する。在宅勤務の浸透、通学からオンライン学習へ、店舗に足を運んだ買い物からオンラインショッピングへ、対面による会議からオンライン会議へ、オンライン飲み会、オンラインによるライブ配信やスポーツ観戦など、挙げればきりがない。このように、時代は着実にデジタル社会へと切り替わっている。今回の調査でも明らかなように、仕事や暮らしの面で一旦取り込まれた仕組みが元に戻ることはないであろう。したがって、地域の産業・企業は、従来型の社会を意識しつつ、こうしたニューノーマルの時代の中で支持を集める新しいビジネスモデルの構築を考えなければならない。
第2の方向性は、“命を守る”ビジネス活動を推進すること。今回のアンケート調査では、デジタル社会の到来を意識して、今後の成長産業にAI(人工知能)や運転支援・自動運転、ICTなどを挙げる例が多くみられた。その一方で、スマートアグリ・農業ICT、予防医学、感染防護用の機能性繊維、防災・災害時通信ネットワーク、クオリティーの高い食品(加工)など命に係わる分野を成長産業と指摘する声も多く聞かれた。すなわち、今後の成長産業として期待できる分野は、“命を守る”産業分野、人類が生きるために必要な食糧、医療、教育、文化、情報、イノベーションなど、生きるために本当に必要なものの生産に集中することが求められている。福井の産業で例を挙げれば、農産物・食品加工分野ではクオリティーの高い農産物や食品加工物の生産、製造業の分野ではウイルスをシャットアウトする住宅部材の生産や繊維産業では防護服などの繊維衣料の生産ということになろう。
第3の方向性は、顧客ニーズ創造型ビジネスの展開を志向すること。今回のコロナウイルス感染症の拡大で大きな打撃を受けた産業は、観光・レジャー、飲食・サービス業であった。しかし、これら産業はコロナ終息後どこまで需要が復活するのであろう。戻るとしてもかなりの時間を要することは間違いない。本アンケートでも、今後の成長産業として観光・ツーリズムを挙げた企業ウエイトは全体の12.5%にとどまっている。観光・飲食など幅広い意味でのサービス業の特徴は、生産と消費の同時性、すなわち客が来て初めて生産が始まること。これら産業が従来型の対面による活動、言い換えればアナログな活動に留まることは、もはや得策ではない。待ちのビジネスから攻めのビジネスへと転換するためにも、既存のビジネスモデルに一味付けて事業の柱を多様化する、所謂、ハイブリッド化することが必要ではないか。福井県唯一の温泉地あわら温泉旅館の中には、夕食や源泉、浴衣のセットを提供し、自宅で温泉旅館を味わえる新プランを開発、家庭に居ながら温泉旅館の雰囲気を味わってもらおうという戦略を打ち出した。いわば、温泉旅館のテイクアウトである。また、福井市にある文具店では、オンラインで店内の様子を見ながら買い物ができるバーチャルショップに切り替え反響を呼んでいる。既存のビジネスに新たな価値を付け多様化することは、新たな顧客ニーズを創造することにもつながっていく。今後は、そんなハイブリッド型のビジネスモデルが求められる時代ではなかろうか。
そして、第4の方向性は、これまで述べた3つの方向性のどれを選ぶにしても、それを可能とするために、自社のデジタル化を推進することが必要となろう。すなわち、企業内部での効率性をさらに高めるために、デジタルツールの活用による働き方改革を実践することである。
最後に、第5の方向性として、昨今の時代変革を一つ挙げ、そこから今後の地元産業・企業の在り方を考えよう。それは、Society5.0の時代を意識した事業領域への参入であろう。例えば、国土交通省が進めるスマートシティ構想。これは、情報通信技術など最先端技術を活用した暮らしやすい未来型の都市をつくろうというもの。自動車や街頭に設置されているセンサーなど、あらゆるモノをインターネットでつないで、より安全で便利なまちづくりを目指す。新型コロナ感染症をきっかけに、元々進んで来たSociety5.0の時代が一気に加速することが予想される。そこで、例えば、前述のスマートシティに関連して、ICT、AI、自動走行など、地域企業はここに新たなビジネスチャンスを見出すことはできないか。大学生の就職におけるコロナ感染拡大の影響
コロナウイルスの感染拡大及びそれに伴う様々な活動の自粛は、大学生、大学院生の就職活動にも多大な影響を与えている。
企業の大学生等への採用活動は、文科省の指導もあり表面的には3年次、修士1年次の3月に広報が解禁となり4年次、修士2年次6月から採用試験が開始される。まさに大学生の就職活動が本格的に開始される時期に、コロナの感染が拡大し、3密を避けるために学生が企業と接触する機会となる「合同企業説明会」等が相次いで中止となり、企業は一時的に採用活動を停止することを余儀なくされた。福井県でも県が主催する就職イベントや大学内で開催される企業説明会が中止になり緊急事態宣言が発令されると、大学や就職の支援機関も閉鎖されるところが多く、大学生は情報の入手と企業との接触機会を失い就職活動がストップしてしまった。
しかしながらここ数年、売り手市場と称されるように企業の採用意欲が高く、水面下で採用試験を実施し2月3月時点で内々定(正式な内定は10月なので、それ以前の内定を内々定と呼ぶ)を出す動きがみられた。つまり早期に採用活動を開始した企業や早めに動き3月前に内々定を獲得した学生は、コロナの影響をあまり受けずに済んだことになる。このことは2021年卒の内定獲得率の推移にも表れている。今年の4月1日時点の内定状況は、31.3%と好調で昨年の3月時点の内定率を10ポイント上回っていた(就職みらい研究所調査)。ところが6月時点になっても内定状況はあまり伸びない。昨年は65.3%であったが本年は56.9%と10ポイント程度低い状況だ。9月1日時点の内定率は85.0%と徐々に上昇してきているが、昨年に比べまだ8.7ポイント低い。
採用活動が一時的に停止しただけでなく、緊急事態宣言が解除されても需要の減少や売り上げの低下から採用そのものの見直しや停止も相次いだ。ANAやJALの採用停止はニュースで大きく取り上げられたが、運輸業、宿泊業、外食産業、製造業等で採用中止や採用数の抑制が発表されている。残念ながら卒業まで厳しい状況が続くとみられる。
コロナの感染拡大は、採用活動、就職活動の時期的な問題だけでなく、採用方法にも大きな変化をもたらした。これまでの採用活動は、対面を基本とし筆記試験、グループディスカッション、集団面接、1次2次面接のように進んでいた。当初は最終面接だけでも直接学生と会って決めたいという企業が多かったが、現在ではほとんどの企業がオンラインの面接で採用を決定している。この採用方法の変化は、学生、企業双方に移動時間と交通費、試験会場費等のコストの削減というメリットももたらした。Uターン学生は、大学の所在地近隣の企業も自分の出身地の企業もハンディなく受験することができる。最終試験に対面面接を取り入れるにしても、採用試験におけるオンラインの活用は来年以降も続くと予想される。
経済環境の悪化が大学生の就職に影響する例はこれまでにもみられた。2008年9月に起きたリーマンショックは、その後大学生の就職状況が悪化し就職氷河期と称されている。2009年3月卒業生はリーマンショック時にほぼ就職活動が終了しており、内定率は95.7%と前年に比べ1ポイント程度の低下であるが、2010年91.8%、2011年91.0%と大幅に低下し2012年から93.6%と徐々に回復してくる。次年度の新卒者の採用は夏から冬の時期に決定する企業が多いと聞く。コロナの影響もおそらく、今年度よりは次年度以降の学生の就職により大きく出る可能性が高く、その影響は2、3年継続するであろう。
実際に企業を回っている本学のキャリアセンターの担当者によれば、来年以降の新卒採用について(1)採用を中止する企業、(2)採用数を減少する企業、(3)なお採用意欲が高い企業があるという。採用意欲が高い企業においても、Uターン者を含め応募倍率は高くなり、競争は厳しくなる。
大学生にとっては、しばらく厳しい就職状況が続くと思われるが、withコロナの新しい生活スタイルが求められることと同様に、就職・採用活動においても新しい様式が出てくるかもしれない。これまでの就職活動は学生の時間的負担が大きかった。ただ悲観的になるだけではなく、企業・学生の双方によるオンライン、リモート等の積極的な導入が学業と就職活動を両立させ新たな出会いが生まれることを期待する。動物行動学・仏教・言語批判哲学
ウィトゲンシュタイン(オーストリア1889-1951)の言語批判哲学を研究している。まったく関係なさそうな二つのところから言語批判哲学に繋がったので、ご紹介したい。
一つ目は、ドイツの動物行動学者のユクスキュル(1864-1944)が考えた「環世界(Umwelt)」という概念。生物はみんな同じように世界を見ているわけじゃない。感覚器官は生物種ごとに性能が異なっている。だから同じ世界の住人でも、生物種ごとに捉えている世界は違っている、生物種ごとに「環世界」が異なっている、とユクスキュルは主張する。つまり知覚内容は感覚器官の性能と相対的に決まることになる。例えば、人間の耳は、20~20.000ヘルツの空気の粗密波しか音として聞くことができない。しかし犬の耳はもっと高い周波数の粗密波を音として聞くことができる。だから周りの人間には気付かれずに、犬に指示を出すことのできる犬笛というものがある。また、光の三原色は赤・緑・青だが、赤(700ナノメートル)・緑(546.1ナノメートル)・青(435.8ナノメートル)の3種類の電磁波だ。つまり光の三原色は自然そのものの性質ではなく、また光の三原色はこの3種の電磁波がもつ性質でもない。人間の眼がこの3つの波長の電磁波に生理化学的反応を起こしているだけだ。世界が見えているように見えるのは、世界そのものがそうだからではなくて、人間の眼の性能によってそう見えているのである。
同じことが知性にも言えないだろうか。私たちは知識とは世界そのものを知ることだと思っているが、私たちの感覚に限界や制限があるように、私たちの知性にも限界や制限があるのではないか。例えば脳の構造上の限界や制限を考えることもできるが、ここでは言語を考える。それは、知性の働きの結果が知識であり、知識の表現が言語だからだ。しかし、言葉は世界を客観的に表現することができるのだろうか。言葉の上では、何にでも「それは、なぜ? どうして?」と問えるが、物事には必ず原因があるのだろうか。因果関係は世界の見方の一つに過ぎないのではないか。そもそも、主語・述語という文法は世界自体の構造なのだろうか。いや、知識や言語は私たちがより便利に生活するための、よりうまく欲望を満たすための道具ではないか。
もう一つは仏教。仏教の目的はシンプルで、苦が生じるメカニズムを明らかにして、苦を消滅させることにある。そして仏教の世界観は、無常・無我に尽きる。無常とは常なるものは何もない、あらゆるものは時とともに変化し移ろい行く。そして、無我とは人間の自我ばかりではなく、あらゆるものに自性、つまり常なる本質がないということ。
では、苦の生じるメカニズムとは。この世が無常・無我であることを知らないこと、これを「無明」という。この無明に縁って、煩悩が生じ、この煩悩が満たされないことによって苦が生じる、というものだ。では、苦を消滅させるには。一つは煩悩を満たしまくること。しかしこれはできない。苦の典型は老・病・死だが、これらを回避する術はない。もう一つは、この世が無常・無我であることをよくよく知って、無明を解消して、それによって煩悩を生じなくさせて、苦を生じなくさせるという仕方だ。こちらが仏の教えに他ならない。
逆に常なるものがないと成立しないのが「分別」である。分別の基礎は分けて区別することにある。しかし分けられ・区別される物事を安定しているもの、つまり常なるものと看做さなくては、分けようも、区別しようもない。そして、分別するということは、物事を区別すること、分節化すること、概念化すること、そして言葉で表現すること、要は物事に対して知性を使って対処することである。そして分別こそが無明の証に他ならない。したがって、仏教はこの人間の知性を疑う。ここに仏教の知識批判・言語批判がある。悟りの智慧は、まさに「無分別」智なのだ。新型コロナウイルス感染症による死亡の状況
4/7の緊急事態宣言発出から4ヶ月弱が経過し、様々な社会経済データが明らかになりつつある。我が国におけるコロナクライシスの影響を現時点で考察するにあたり、中でも最も重大な結果である死亡に焦点を当ててみたい。
新型コロナウイルス感染症による国内での死亡者数は、7/28段階で998人である。これに関しては、欧米諸国と比べた人口当たり死亡者数の少なさや、毎年の季節性インフルエンザによる死亡者数と比べた水準の低さを指摘することができる。
一方で、感染者が何らかの理由によりPCR検査を受けないまま死亡した場合、死亡診断書には感染の結果生じた他の疾患が死因として記録されることが起こり得るため、この感染症による死亡者数を正確に捉えることはできないとの声がある。国立感染症研究所では、インフルエンザに関してこれと同様の疑問に応えるための一助として、シーズンごとに超過死亡を推計している(注1)。インフルエンザが流行していなかった場合の死亡者数を推定し、実際の死亡者数との有意な乖離が生じた場合に、超過死亡が観察されたと判定している。
この推計によれば、2019-2020シーズンにおいて全国の対象都市の合計で超過死亡は観察されていない。東京に限ると超過死亡が認められるものの、その水準は過去3シーズン並みかやや低い程度にとどまっている。この結果から新型コロナウイルス感染症による影響を厳密に評価することはできないものの、同感染症による一定程度の明確な埋もれた死亡者の存在は浮かび上がらず、先の数字が実態に近いとの推測が成り立つ。
次に、間接的な影響をみるために自殺をとりあげる。我が国の自殺者数は2010年頃から前年比2~9%の減少傾向にあるが、2020年1~6月はその水準を超える減少となった(対前年同期比▲9.9%)(注2)。なかでも緊急事態宣言下の4月(〃▲18.0%)、5月(〃▲16.0%)は大幅減であった。
近年の自殺の要因は、多いものから健康、経済・生活、家庭、勤務、男女、学校の順となっている。このうち新型コロナウイルス感染症に関係するものとしては、受診控えや運動不足からの深刻な健康問題、倒産や失業等の経済・生活問題、DVや虐待等の家庭問題などが考えられる。その他、人間関係が一時的に希薄化したことで、勤務、男女、学校を要因とする増減が生じている可能性もありそうだ。
要因別、年齢別等の詳細な結果が示されないと正確な分析はできない。しかしながら、少なくとも現時点では、新型コロナウイルス感染症による自殺の増加は生じていないと言える。経済・生活問題を要因とする自殺は、あくまで現時点でのことではあるが、最低限の雇用が維持され会社も個人もなんとか食いつないでおり、増加にまでは至っていないことがうかがえる。現に、就業者数は大きく減ったが失業率は微上昇にとどまっている。また、巨額の雇用調整助成金とそれに伴う休業者の大幅増が、当面の支援策・対処法として機能していると言えよう。さらには、多くの業種や階層において、危機意識が共有化されたことによる連帯感が、まだ存在していることも大きいのかもしれない。
直接・間接を問わず、新型コロナウイルス感染症による死亡数が、今後も低水準でおさまることを願いたい。そのためにも、まずは各所において感染拡大の防止と医療体制の一層の充実に努めつつ、新たなビジネスや生活様式に機敏に対応しながら、経済活動を冷静に元に戻していくことが重要である。さらには、この数ヶ月で発生・増幅した様々な格差や差別の解消に向けて、支え合う姿勢と具体的な支援策が求められよう。P.S. 私が執筆するコラムはこれが最後になりました。9月末で任期満了を迎え、更新が叶わず退職となります。10年間、ありがとうございました。
注1:国立感染症研究所 感染症疫学センター「インフルエンザ関連死亡迅速把握システム」2020年5月24日掲載
https://www.niid.go.jp/niid/ja/from-idsc/9627-jinsoku-qa.html注2:警察庁「自殺者数」(2020年6月末の暫定値)
https://www.npa.go.jp/publications/statistics/safetylife/jisatsu.htmlブラック・エレファント(=COVIT-19)にどう立ち向かうか
新型コロナウィルスの脅威は止まるところを知らないようだ。世界銀行は6月、2020年の世界経済はマイナス5.2%、仮に第2波が来た場合はマイナス7.8%まで落ち込むと予測した。いずれにしても、戦後、最大の落ち込みとなる。世界貿易機関(WTO)も4月、2020年の世界のモノの貿易が最大で32%、楽観シナリオでも13%落ち込む戦後最悪の結果を予測している。IMFのゲオルギエワ専務理事によれば、「世界の9割近い170カ国の経済が悪化する」。これはリーマン・ショック時の6割を大きく上回る。
特に、衝撃的なのは、一人当たりGDPの伸び率がマイナスとなる国の割合が93%にも達することだ。これは、大恐慌のさなかにあった1931年の水準(84%)を上回っているだけでなく、90%を超えたのは世銀が分析対象としている1870年以降で初めてのことである。こうした新型コロナウィルスの世界的流行は途上国に深刻な打撃を及ぼし、「6000万人が極度の貧困に追い込まれることになる」(マルパス世銀総裁)。
今後に向けての問題点が2つある。第一に、企業戦略面からみた場合、事業環境の見通しが極めて難しくなっていることだ。リーマン・ショックの際には、中国が4兆元(当時のレートで約57兆円)の大規模経済対策によって世界経済を下支えしたが、今回は、そうした役割を担える国や地域が見当たらないのだ。過去10年間、世界経済の3分の1を引っ張ってきた中国は、2020年1~3月期のGDPは前年同期比マイナス6.8%と、四半期ベースでの記録が残っている1992年以降、初めてマイナス成長に落ち込んだ。それでも、世銀によれば、2020年は1%増とプラス成長を確保する見込みだが、1976年以来の低水準となる。138ヵ国との間で数百のプロジェクトが動いている「一帯一路」では、中国から融資を受けた途上国がコロナ渦で債務不履行に陥るのでは、といった懸念が広がっている。もし、そうなれば、中国が貸し付けた巨額の資金が消えてしまうことにもなりかねない。さらに、香港問題などを機に、米中による新たな冷戦時代が幕開けしたことで、国際経済の枠組みにも変化が生じる可能性が高い。そうなれば、企業はグローバル・バリューチェーン戦略などについて根本から見直す必要に迫られることになるだろう。では、どうすればよいのか。
このように、変化が激しく複雑さが増している事業環境に対処する1つの方法は、シナリオ・プラニングを通じて複数の選択肢を検討しておくことである。さらに、このような事業環境に適した経営戦略モデルの一例として、ボストン・コンサルティンググループ(BSC)のパートナーであるマーチン・リーブス氏が唱えるアダプティブ(適応型)戦略も有効と思われる。詳細は省くが、たとえば、オンラインDVDレンタルなどを手掛けるネットフリックス社は、特に、「人材の力」を引き出す組織能力に秀でている。同社では、会社の成長に従って社員の自由度を制限するのではなく、むしろ高め、革新的な人々を引き付けて育成し続けることを目指している。そのため、ネットフリックスは二種類のルールしか持たない。取り返しのつかない大失敗を防止するために設計されたルールと主にコンプライアンスに関するルールである。休暇についての取り決めも勤務時間の管理もない。労働時間ではなく、すべきことを重視している。テレワークが進む日本でも参考になるかもしれない。
2つ目の問題点として忘れてならないのは、今後、医療体制が整っていない新興国や途上国で感染拡大が起こった場合、医療崩壊による大惨事につながるリスクが高いことだ。これまで、途上国がこうした災害に巻き込まれた際には、多国間主義による国際協力によって、迅速かつ高度で組織的な救援活動が可能であった。しかし、今回はやや状況が異なる。まず、医療先進国自体が自国での対応に追われている。さらに、問題なのは、自国第一主義や単独行動主義(ユニラテラリズム)が米国、ロシア、中国などを中心に世界に蔓延しつつあることである。これは、ある意味、「ブラック・エレファント」とも隠喩される今回の新型コロナの核心を突いているとも言える。
「ブラック・エレファント」とは、事前にはほとんど予測できない極端な事象が発生し、それが人々に多大な影響を与える「ブラック・スワン」現象(理論)と「見て見ぬ振り」を意味する「エレファント・イン・ザ・ルーム(部屋にいる象)」を掛け合わせた造語で、いずれ大変なことになるとわかっているのに、なぜか見て見ぬ振りで、誰も対処しようとしない脅威を表す。今回の新型コロナに関する中国の初期対応(情報の隠蔽)や安全より経済を優先するトランプ大統領、さらにはブラジルのボルソナロ大統領の対応がまさにそうである。今回のパンデミックで、ブラック・エレファントのリスクと対処法が確認できたのは不幸中の幸いと言えなくもない。今後、再びパンデミックが起こらないように、我々が為すべきは「情報の隠蔽」、「不平等」、「野生動物などの生息地の破壊」、さらには「国際協力・協調の欠如」といったブラック・エレファントの発生源を少しでも無くしていくことである。容易ではないが、努力する価値はある。