福井県立大学地域経済研究所

2014年7月

  • なぜ学の旅

    2012年春に福井県立大学に赴任し教職に就いた。あれから2年と4カ月が経過し、いよいよ任期満了で派遣元のジェトロに帰任することとなった。福井県立大学ではアジア経済を中心に授業を担当したが、これから社会に出ていく若者たちと接する度に思うことは、今の若い人たちが異文化、異質性、多様性に対して不慣れだということである。いや、不慣れというよりも無関心に近い状態でこれまで年を重ねてきた印象すらある。私自身が大学生の頃どうであったかを思い起こせば、自分だって同じようなものだったかもしれない。高校を出たばかりの若者の世界観というのは生活圏内の比重が大きく、他県や外国、異文化はメディアを通じて知ってはいたものの、自分とは縁のないものと考えていた。学生時代の私は大学の授業を通じ、じわじわと外国への憧れが湧き起こったが、学業とアルバイトと遊びで忙しく、旅に出るという行動を起こすまでには時間を要した。大学3年生にもなると、インドや中国を極貧旅行してきた友人が私の周囲にも何人か現れるようになった。学生食堂でこれら友人の武勇伝を聞くうちに「自分も行ってみよう」と功名心のようなものが芽生え、ようやく外国に向けて重い腰を上げたのであった。

    現在、インターネットを使ってキーワード検索をすれば、動画、画像、旅行記、歴史背景などを瞬時に観ることができる。行ってみなければわからないという気持ちが萎えてしまうほど内容は充実しており、高い旅費をかけてまで現地に行くまでもなく、他人の報告を見るだけで行った気になるし、分かったような気になってしまうのである。だから、今時の学生は20年以上前の学生と比べ、さらに腰が重くなっている可能性もあるだろう。

    旅をするということは自分の足で歩き、肌で空気を感じ、耳で雑音を拾い、現地の人と肩を並べて同じようなものを喰い、そこの人たちと接触してくることである。まさに五感を通じて異質性を感じ取る作業が旅であろう。名所旧跡を訪ねるのもいいが、現地のモノやヒトと濃厚に関わることで初めて「なぜ?」「どうして?」という好奇心が増幅する。この「なぜ?」を蓄積し、あるいは自分の知識や経験をフル動員して洞察する過程こそが旅であると感じるのである。

    換言すれば「異質性こそ価値である」ことを知ることが旅の目的ではなかろうか。これから社会に出ていく若者たちは様々な知識や知恵を他人の経験を通じて学ぶことができる。ただし、それはこれから歳をとってもできることでもある。今は大学で学んだ知識を自分で体験することによって裏付け、新たな「なぜ?」を持ち帰り、また勉強するという作業をするに最適な環境にある。という思いが私のなかでは強いものだから、常に学生に対して熱く語りかけるのだが、これによって惹起される若者は多くない。

    結局、私も若い頃というのは遠い外国や異文化への興味よりも身近なものへの関心が圧倒的に強い時期であった。大学3年生の時、生まれて初めてパスポートを取得し、スリランカへ出かけたのが最初の海外渡航であった。学生時代後半はそれこそアジアなどの外国を旅するために日本国内でアルバイトをするという状態だった。そして、アジアだけでなく、欧州、北米、中米などへ足を運んだ。これらの旅を通じて多様で異質な物事に圧倒され、魅せられた。その時に蓄積された「なぜ?」があまりに多く、これらの解は見つかったのかというと、次から次へと新しい「なぜ?」が舞い込んでくる始末である。

    社会人となった今も幸運にもアジアと関わり続けている。これまでに蓄積した「なぜ?」は解を見つけたのだろうか。いや困ったことに、知れば知るほど分からなくなるといったスパイラルな現象が続いている。なぜ?という疑問がひとつ解けると、その向こうに複数のなぜ?が待ち受けているからである。

    異質性との出会いを避けていれば解を求めて苦労することもない。「なぜ?」と洞察することはエネルギーを要する。ただし、このエネルギーは決して無駄ではないようだ。「異質性こそ価値である」という境地に立てば、「なぜ?」を洞察する過程で、今まで見えなかった日本が見えてくることがある。それは己を知ることでもある。これが本コラムのタイトルにもなっている「アジア目線」の含意でもあった。アジアから見る自分なのである。

    アジアに限らずたくさんの見知らぬ土地で多様な「なぜ?」を拾い集めることが私にとっての旅であり、この洞察の旅は何やら自分探しの旅でもあり、まだまだ続くのである。

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