福井県立大学地域経済研究所

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福井県の幸福度再考

塚本 利幸

一般財団法人日本総合研究所が発表している「全47都道府県幸福度ランキング」で、福井県は2020年も総合1位に輝いた。同ランキングは2014年から隔年で実施されており、福井県は開始以来、4連続で総合1位の座を守り続けている。同時に、ランキングの算出方法に関して、次回からは統計指標に依拠したものから、幸福度に関する住民の行動や実感を重視する方向に変更することも明らかにされた。この変更で福井県の順位がどのように変化することになるのか、期待と不安が交差するところである。
振り返ってみれば、統計指標から客観的な基準で算出された幸福度や暮らしやすさに関して、福井県は無類の強さを誇ってきた。経済企画庁が1994年から1999年まで公表していた「新国民生活指標」(「豊かさ指標」、「暮らしやすさ指標」などとも呼ばれた)でも、福井県は6年連続で第1位に輝いている。貨幣的な指標では捉えきれない生活の「豊かさ」を、「住む」、「費やす」、「働く」、「育てる」、「癒す」、「遊ぶ」、「学ぶ」、「交わる」の8つの指標から測定したランキングである。2011年に刊行され話題になった『日本でいちばん幸せな県民』(幸福度指数研究会、PHP研究所)でも、総合ランキング1位はやはり福井県であった。都道府県レベルのランキングではないが、東洋経済が刊行している『都市データパック』では、800近くある日本の市の「住みよさランキング」が公表されている。算出に大型小売店店舗面積といった指標が使われているため、郊外に大型ショッピングセンターがオープンすると順位がジャンプアップしたりすることもあり、変動の目まぐるしいランキングなのだが、福井市、坂井市、鯖江市あたりはベスト20の常連になっている。
いずれも統計指標から客観的な基準で算出されたランキングではあるが、算出の主体によって使われる指標や計算方法は少しずつ異なっている。指標の数値そのものも年次変動を繰り返している。言い換えれば、その程度の違いであれば、ものともしない抜群の強さを福井県は示してきているのである。中央省庁のキャリア官僚、大学の研究者、シンクタンクの研究員とそれなりの知的能力を備えているはずの人たちが算出した数字が、どれもこれもまったくの的外れということも考えにくいだろう。
一方で、こうした数字上の強さに県民の実感が伴っていないという声も少なくない。福井県が地上の楽園というわけではなく、すべての県民があらゆる局面で幸せに満ち満ちた日常生活を送っているなどということはあり得ない。多くの県民がさまざま不満や生きがたさを抱えていても当然だろう。ただ、それにしても、数字上の幸福度の高さと生活実感のギャップを指摘する声を耳にする機会が多いように感じている。以下では、その理由についていくつかの観点から検討してみたい。
個人的には、田舎コンプレックスが幸福度の高さを素直に受け入れられなくしているような気がしてならない。今でこそ福井県の数字上の強さに誰も驚かなくなっているが、1994年の経済企画庁の発表は、この手のランキングの嚆矢ということもあり、かなりの意外性をもって受け止められたことを記憶している。福井県が1位に選ばれただけでなく、東京を除く首都圏の地域が軒並み下位に沈んだことも、その一因となっていたようだ。福井県が1位をキープし続けた6年間、最下位に沈み続けたのは埼玉県であった。「新国民生活指標」の妥当性そのものが、議論の的になることも少なくなかった。ニュース・ステーション(当時人気の高かった報道番組)でもそのあたりが取り上げられ、「遊ぶ」の項目に「人口当たりのパチンコ店数」が使用されていることに触れ、キャスターの久米宏氏が「パチンコ屋の数が多いと暮らしやすいんでしょうか」と例の皮肉たっぷりの口調で批判していたのを憶えている。この時点では自分が福井県で暮らすことになるとは夢にも思っていなかったのだが、滋賀県の小さな町で暮らす田舎者の一人として、「暮らしやすさで田舎の後塵を拝するのが、都会の住民にはこんなにも受け入れがたいのか」と驚き呆れたことを鮮明に記憶している。「福井のような田舎が日本で一番、幸福で住みやすいはずがない」という先入観は、都会に対する劣等感とあいまって、福井県民の間にも多かれ少なかれ共有されているのではないだろうか。奥ゆかしさは福井の県民性の美質の一つだとは思うが、住みやすさに関しては夜郎自大にならない程度にもう少し自信をもってもいいような気がしている。
次に、これは以前のコラムでも触れた論点だが、福井県民が福井県の暮らしやすさに気づきにくいという側面もあるだろう。福井県は定住性が高く、県民の多くは福井県外で暮らした経験に乏しい。このことが、他府県と比べて福井がどうなのかに関して、具体的にイメージすることを難しくしている。例えば、通勤時間の短さに幸せを感じている福井県民がどれほどいるだろう。マイカーを利用してドア・トゥー・ドアで片道30分以内という通勤スタイルは(SDGsという観点からは問題含みかもしれないが)、首都圏のベッドタウンの住民からは垂涎ものだと思うが、その恩恵はほとんど意識されていなのではないだろうか。満員電車で片道1時間半近くすし詰め状態を余儀なくされるという経験がないのだから、気づきようがないのかもしれないが、まさに雲泥の差である。1日につき2時間程度の差なので、年に250日通勤するとして、20年間その生活を続けると、合計で10000時間ほどの違いになる。ざっと計算で400日以上に相当し、1年を軽く超える差になる。20年につき1年あまりの可処分時間の差は見過ごすには大きすぎる気がするが、定住性の高さゆえに福井県民の意識には上りにくい。子育てのしやすさにしても、その実感が薄すぎるような気がしてならない。筆者は関西から福井県に移り住み、福井県で子育てをした人間だが、県内でベビーカーを押していて嫌な顔をされた経験が本当に「ただの一度もない」。このことがどれほど特筆に値するかは、福井県でそれを当たり前のこととして享受し続けてきた人には実感できないだろう。子どもたちの通学時の交通安全の立ち番やボランティアの方々の姿が、地域に見守られて育っているという安心感をどれほど育んでいるのかも、福井県ネイティブには当たり前すぎてピンとこないのではと思う。当たり前のことは当たり前すぎて、そのありがたみを実感しにくいものなのだ。
福井県民が幸福度を実感しにくい理由としてよくあげられるものに、多様な価値観や生き方に対する不寛容や人間関係のしがらみの強さなどがある。こうした課題を克服していくことの重要性を過小評価するわけではないが、その前提として確認しておくべきことがあるような気がする。筆者は、福井県の暮らしやすさを支えている大きな要因として、家族間のつながりや地域の人間関係のネットワークの緊密さがあると考えている。血縁(産む生まれる)や地縁(同じ地域に住み合わせる)といった結びつきは、運命的で変更が容易でないことを特徴としている。こうした選択性の低い関係を基盤とする結びつきをソーシャルキャピタル論では結束型と呼んでいる。これに対して、サークルやクラブへの加入、ボランティア活動への参加のような興味や関心の共有に基づく選択性の高い結びつきは架橋型と呼ばれる。福井県の強みは結束型の結びつきの緊密さにあると考えるのだが、こうした結びつきには匿名性の低さや同調圧力の強さといったダークサイドも付きまとう。これとは裏表の関係になるのだが、多様な価値観や生き方に対する寛容さは他者への無関心と紙一重でもある。近代的な価値のチャンピオンである自由と平等に関して、完全に両立させることは原理的に不可能であることが知られている。完璧に自由でかつ完璧に平等な社会は望んでも不可能であり、両者のバランスに関するコンセンサスをどのように形成するのか、そのバランスをどのように実現するのか、が現実の課題となる。幸福度の実感をどうやって高めていくかに関しても、「あれもこれも」の完璧な両立はないものねだりで、コンセンサスやバランスの問題であるといった認識が適切なのではと考える。結束型のつながりにも、架橋型のつながりにも、それぞれ一長一短があり、それを踏まえたうえで、さらに2つのつながりをどう醸成し、どうバランスさせていくのか、といったかなり込み入ったチャレンジが必要とされる。ただ、容易ではないということに必要以上に悲観的になることもないだろう。血縁的な結びつきに関して、福井県民が創出してきた三世代近居というライフスタイルは絶妙なバランスのとり方だと考えている。
田舎コンプレックスを払拭し、すでに備わっている暮らしやすさを再確認しつつ、新しい局面を切り開いていくことは、困難ではあるが十分にやりがいのあるチャレンジだろう。