御食国、小浜市を訪ねて
先日、久しぶりに福井県小浜市を訪ねることができた。同市がある若狭地方は、古代から日本海を隔てた対岸諸国との交易が開け、日本海側屈指の要港として栄えてきたといわれる。陸揚げされた大陸文化や豊富な海産物、塩など各地の物産は、陸路、若狭と京を繋ぐ数多くのサバ街道を経て、近江、京都、奈良あたりにもたらされた。1500年前には成立していたといわれる若狭国と大陸とのつながり、奈良や京都との古くからの交流の足跡は、市内に点在する数多くの文化遺産からうかがい知ることができる。また、生きたゾウが日本へ初めて上陸したのも、記録上、若狭国小浜が最初といわれ、ちょうど1408年(応永15年)のことと聞いている。
鎌倉時代には執権である北条氏自身が若狭の守護職を務めていたが、鎌倉幕府と北条氏の滅亡後は、北条氏を倒し武家の棟梁となった足利氏の最有力氏族である斯波氏が統治するなど、その時代時代の室町幕府の実力者か、それに連なる人物が若狭の守護職を得ていた。例えば、室町時代初期には一色氏が、その後は安芸国分郡守護の安芸武田氏から分出した若狭武田氏が、若狭武田氏が衰退すると越前朝倉氏の庇護を受けた時代もあったようだ。その朝倉氏も尾張守護代より台頭した織田氏に滅ぼされて、その後は丹羽長秀が支配し、本能寺の変の後、織田信長に代わって豊臣秀吉が政権を握ると、若狭国は山内一豊などの秀吉の子飼いの大名が治めるようになった。
江戸時代になると、京極高次が若狭を領することとなり後に越前敦賀郡を含む若狭地方一帯は小浜藩領となった。又、江戸時代には北前船が若狭地方を本拠地とした為に、敦賀と並んで小浜は海運の一大拠点として大いに盛えた。また、小浜と京都を結ぶ数々の街道がサバ街道と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからと聞いている。この頃、特に鯖の水揚げが多かったためであろう。そして、1634年(寛永12年)、それまで武蔵国川越城主であった酒井忠勝が入封し明治維新まで続く。特に、酒井家の時代には、色漆を用いて貝殻や卵殻などを塗り込め、研ぎ出しの技法で模様を出す若狭塗を藩の殖産興業として奨励した。また、若狭地域の多くの寺の修復も行った。現在まで、若狭塗は伝統工芸品として続き、地域には古い寺社仏閣が残されているが、これらは酒井家の力によるところが大きい。そのほか、江戸時代を通じて歴代藩主は学問を盛んに奨励した。人材育成に重きを置いた小浜藩の方針は、江戸時代後期になるとみごと開花し、解体新書(ターヘル・アナトミア)を出した杉田玄白、中川淳庵をはじめとする優れた才能を持つ家臣を多く輩出した。1774年(安永3年)に酒井忠貫が若狭に設立した藩校「順造館(じゅんぞうかん)」は福井県内で最も早く開校され、ここで学んだ人々の中には、国学者の伴信友、幕末の志士の指導者、梅田雲浜などもいた。
明治維新により小浜県が設置されると当地はこれに属することとなる。そして、敦賀県、滋賀県を経て1881年(明治14年)に福井県に編入された。1889年(明治22年)の町村制度実施に伴い小浜町が生まれ、その後、1951年(昭和26年)3月、1町7村の合併により若狭の中心都市として小浜市が誕生、次いで同30年、さらに2村を編入し現在の小浜市(人口30千人)となっている。
ところで、同市が誇る産業と言えば、400年以上の歴史を持つ塗箸の生産を挙げなければならない。現在、日本の塗箸のなんと80%以上がこの地から生産されていると聞く。そしてもう一つ、同市が代表する特産物といえば、「へしこ」、「ぐじ(甘鯛)」、「若狭カレイ」など。これらは、全国に知られる高級ブランドとなっている。そして、これらに共通するキーワード「食」を生かしたまちづくりも興味深い。地域の歴史、文化、風土は「食」にあるとし、健康、教育、福祉、環境、産業、観光など、あらゆる分野のまちづくりが「食」を起点に取り組まれているのである。「食のまちづくり」の総合的な課題に取り組むために、2001 年9月には全国で初めて「食のまちづくり条例」も制定された。そして、今、小浜市では食と産業・観光とを結びつけることで地域経済の活性化をめざす、様々な取り組みが行われている。2011年に策定された小浜市の「第5次小浜市総合計画」には、”「夢、無限大」感動おばま”のテーマが飛び込んでくる。そこには、自然と文化があふれる小浜だからこそ可能な地域力を生かして次代を築こうとする小浜人の気概を読み取ることができる。同市の今後の発展に期待したいところである。