メールマガジン
配偶者控除と女性の就業
最近全国を騒がせている目立った話題と言えば、電通職員の過労死、鳥取の大地震、築地市場の豊洲移転、五輪整備費、天皇陛下生前退位、ノーベル賞、原子力発電所の再稼働などでしょうか。他方、これらに比べれば地味ですが、税制上の配偶者控除を見直す議論も俄かに活発になりました。
私自身、父母共働きでしたし、妻ともずっと共働きで現在に至っているので、個人的には縁の無い制度なのですが、私の周囲にはこの制度が変わることにより家計に影響が出てくるのではと心配する夫婦やパートやアルバイトの雇用を見直す必要が出てきそうな経営者の知人もいることから、今後の動向が気になります。ただ、配偶者控除に関する見直し議論はかなり以前からあります。もとは、私もまだ生まれていない1961年に創設された制度です。夫が働きに出て、妻が専業主婦というサラリーマン世帯が大都市を中心に増え始めていた時代に、家庭内で家事を担う妻の役割を夫の所得から控除するという形で評価するために創設されたしくみです。半世紀の間の日本社会の変化を鑑みると、これまで大した見直しがされて来なかったことのほうが不思議です。ここ数十年来、とりわけバブル経済が終焉したころからでしょうか、制度疲労を指摘する向きも多くなっていました。結局、来年度の変更は見送られたものの、すでに今月(2016年10月)から、社会保険法上の扶養扱いになるための基準が変更されており、税制上の取り扱いについても遅かれ早かれ何らかの変更は避けられない状況です。
気になるのは、配偶者控除の廃止や見直しが誰のためで何のためなのか、しっかりと整理された議論を割愛して(しかるべきところでは話し合っているようですが、国民的な議論にまではなっていません)、「一億層活躍社会」「働き方改革」の旗印のもと”女性の希望に叶った”働き方の実現に寄与することがあまりに強調され過ぎているように思えることです。人口減少による労働力不足を懸念してか、女性のさらなる活躍を期待する報道が多いのですが、今回の配偶者控除の議論への注目がその点だけに集まってしまうと、本質的な課題を見落としてしまうような気がします。
先日、昨年実施された平成27年度国勢調査の確定結果が公表され、選挙区割の変更作業が本格化しました。だから、というわけでもないのですが、本コラムの最後で、人口関連の統計を通して女性の就業状況について概観してみます。2015年の女性の就業者数は2,754万人で、戦後最多です。過去15年間で女性就業者は約300万人増加しているのですが、その増加に最も大きく貢献しているのが、配偶関係別では未婚の女性です。雇用形態別ではよく言われるように、パート・アルバイトなどのいわゆる非正規雇用が、役員を除く全雇用者の過半数を占めており、正規雇用者より多くなっています。なかでもパートの増加が近年の女性雇用者数の増加を支えており、正規雇用者は逆に微減傾向にあります。他方男性はというと、過去15年間の雇用者数が3,200万人前後でほとんど変わらず推移する一方で、正規雇用者を200万人近く減らしており、男性雇用者数全体に占める非正規雇用の割合が30%にまで上昇しています。
配偶者控除などの雇用に係る制度を見直せば、あとは個々人の自助努力で”希望に叶った”働き方の出来る職に就ける社会ではないようです。女性だけの問題ではなく、男性の問題でもあることは言を待ちません。財政における「受益と負担」を考える
消費税の税率引き上げが延期され、ひとまず家計の税負担は増加を免れた。依然として景気回復への力強い動きが見られない中で税率を引き上げるのは、家計消費をさらに抑制させる可能性が高い。その意味で、今回の判断はやむを得ない面があったと考えられる。
しかしながら、一方で十分な行政サービスが提供できなくなった点も見逃すことはできない。財源(負担)が確保できなければ、支出(受益)もできない、ということである。消費税の場合は福祉に重点が置かれているため、福祉に関する支出が見送られることになる。
このように、財政においては「受益と負担」が一体である。これは誰もが認識していることだろう。しかし、問題は受益者と負担者が必ずしも一致していない点にある。消費税の場合は、主な受益者は高齢者層であるのに対して、主な負担者は勤労者層である。当然のことながら、受益は大きくしてほしいであろうし、負担は小さくしてほしいであろう。だから、財政に関しては受益と負担をめぐる分断が起こりやすくなる。
先日、井出英策ほか『分断社会を終わらせる』(筑摩選書)を読んだ。まさにこの問題に関して述べたものであり、その副題にあるように「『だれもが受益者』という財政戦略」を提唱している。すなわち、受益者と負担者の範囲を広げて、受益者と負担者を一致させるということだ。逆に言えば「『だれもが負担者』という財政戦略」でもあるだろう。受益が実感できるからこそ、負担も受け入れるのである。
このことに関連して、筆者は敦賀市道路照明灯地元負担導入検討委員会に参画した。これは、市内における道路照明灯の設置や運営にかかる費用負担を地元住民に求めるかどうかを検討する会議である。従来は市がすべて負担していたのだが、今後は地元に一部の負担を求めることになった。道路照明灯は生活に欠かせないものであり、すべての住民が受益者である。しかし、その利益は実感していても誰が負担しているのかを知っている住民はきわめて少ないと考えられる。会議では、まず住民に負担の意識を持ってもらうことを重視し、少しずつ負担の割合を上げていくことを決めた。
この会議の経験と前掲書から、財政における受益と負担をめぐる分断について2点述べることにしたい。第1に、税と行政サービスはすでにあらゆる国民・地域住民に及んでいるから、現在でも「だれもが受益者」であると同時に「だれもが負担者」となっている、ということである。したがって、まず重要なのは受益と負担の現状を明確にすることであろう。
第2に、自治体こそ受益者と負担者の一致を図りやすい場になる、ということである。筆者はいくつかの自治体の行政評価に参画しているが、市民の多くが行政サービスの充実を求めると同時に、負担の増加もやむを得ないと感じている。一方、国の行政評価(行政改革等)を見ると、多くが行政サービスの削減や廃止を求め、負担の増加を食い止めようとしている。この違いは、自治体の行政サービスが身近であるために受益と負担を一体で捉えやすいことを示しているように思われる。前掲書でも自治体の役割が強調されているが、それは現物給付の主体として自治体が的確と考えているからである。それだけでなく、受益者と負担者の一致を図るうえでも自治体が重要な役割を果たすのではないか。
消費税の税率引き上げは見送られた。しかし、基幹税を見直す以上、税体系全体での位置づけが必要である。この期間は、景気回復を図るだけでなく、財政における「受益と負担」を考えるための猶予と捉えることにしたい。
今、求められる元気企業の条件とは
21世紀に入って地域を取り巻く経済・社会環境が大きく変化している。自動車産業での変革、化石エネルギーから再生可能ネルギーへの注目、生産の集中から国際分散化への動き、環境技術や循環型社会への注目、農業のビジネス化、さらに未来産業として拡大が見込まれるIOT(Internet of Things・モノのインターネット)等、様々な分野で大きな転換期(=「創造的破壊」が進展している時代)を迎えている。そして、このような大転換は地方の産業界或いは地域企業にとって大きなチャンスと捉えるべきであろう。
こうした中で、地元企業の動向を眺めてみると、外部環境への対応戦略や日々の経営革新面で第2次産業、特に製造業を中心に全国的に評価が高い企業も少なくない。しかし、こうした元気企業には限りがあり、実態は業績の二極分化が進み企業間格差がますます開きつつあることも事実である。従って、地方圏における中小企業の今後のあるべき姿を考慮すると、それは地域経済の基盤を支える中小企業、とりわけ今ある元気企業の次を担う企業、次に続く企業の成長が、地域の将来的な発展を促す重要な要素となることは言うまでもない。特に、地域経済が縮小する中で、建設業、小売・サービス業、介護・福祉など内需型企業の活性化は、地域間競争を勝ち抜くための需要な課題といえよう。
以上の点に着目しながら、今後、地域に求められる中小企業のあるべき姿とは何か、時代を生き抜く”強靭な企業”へと変身するための条件とは何かをテーマにそのヒントを既存の元気企業から探ってみると、それら元気企業は幾つかの共通した特徴を保有している事実に気づく。参考までに、元気企業に共通する特徴を幾つか挙げると、第1に、元気企業は常に有効性と効率性を追求し続けている企業であること。有効性とは「今求められる社会的ニーズの高い財・サービスをつくり続ける」こと、効率性とは「財・サービスの供給に際し、高収益を確保できるシステムを構築すること」である。そして企業が、有効性を上げるには企業と社会との関わりを変える必要があり、効率性を上げるには企業の内部構造、仕事の進め方を変えることが求められる。いずれにせよ、有効性と効率性の見直しにより、自社にとっての競争優位の源泉を一日も速く確立すべき時であろう。第2の特徴は、「2つのC」を実践する企業であること。「2つのC」とは、すなわちトップ自らがチェンジ(change)し、チャレンジ(challenge)精神を醸成し続ける企業であることを意味し、複雑化・多様化する時代だからこそ、経営トップに求められる必要不可欠な素養と言うことになる。第3の特徴は、「トップと社員が一つとなり総力経営」を実践する企業。世界的な企業間競争が激化する中トップやほんの一握りの頑張りだけでは困難な時代、社員一人一人が目標に向かって燃え、トップと従業員の立場を乗り越えた関係構築の重要性、言い換えれば、それは家族主義という過去の日本型経営の一部を取り入れた経営スタイルを今一度考慮することなのかも知れない。そのほか、「さらなるオリジナリティー追求型企業」、「CS(顧客満足=Customer Satisfaction)とES(従業員満足=Employee Satisfaction)の両方を追求する企業)」、6次産業化のように「ネットワーク(多機能・複合型産業化)の構築を目指す企業」、「グローバル戦略追求型企業」など。
このように、元気企業からは多くの共通した特徴を見出せるが、よくよく考えるとこれら手法は、これまでも経営基盤強化の基本的やり方として実践されてきた手法であることも否めない。しかし、低成長時代、閉塞感が漂う時代だからこそ、今一度、企業経営の原点に立ちかえり、自社が保有する経営資源の基礎的条件を再構築することが必要ではなかろうか。その結果、見直された自社の新たな経営スタイルが将来の可能性につながり、自社の発展を促す原動力として大いに機能していくものと思われる。
もはや景気変動に一喜一憂する時代は終わった。今まさに地域企業が大いに活躍できる時が来た。そのために、各々の企業は、まず自社のマネジメントが時代の変化についていけるか否か、もっと言えば、自社独自の技術・ノウハウ、製商品開発力、社員の質、流通、情報網など経営資源の再点検を図り、「たゆまぬイノベーションへの挑戦」を図って欲しい。
格差社会と内田惣右衛門の救貧活動が示唆するもの
2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震と、日本では短期間で大災害が連続して発生した。多くの被害が出ており、困難な状況が続いているものの、活発なボランティア活動や寄付活動からは復興の兆しを垣間見ることもできる。こうした災害時において、著名人が個人資産から義捐金や支援金を寄付し、さらにその金額を公表するという行動が見られた。東日本大震災後にソフトバンクの孫氏が100億円を寄付したことは驚きであったし、ユニクロの柳井氏、楽天の三木谷氏も10億円の寄付をしている。多大な貢献として喜ばれる面がある一方で、いともたやすく巨額な寄付ができる資産所有に、あらためて格差社会の一面が浮き彫りになったともいえるだろう。
欧米諸国には「ノーブリス・オブリージュ」という理念があり、富裕層の義務として貧困層に寄付や支援を行うということが習慣や伝統として根付いている。実は日本でもかつては富者の寄付や社会貢献活動が行われており、しかも、名を伏せて秘かに「喜捨」するという方法で、さらに「善行」として行われていた。その代表として名前が挙がるのが、三国の豪商、内田惣右衛門である。
内田家は江戸時代に北前船の海運業で福井藩を潤した三国の代表的な廻船問屋であり、飢饉のたびに出費をして町の窮民救済に協力した三国の豪商の中で最大の功労者であるとされる。こうした救済活動によって三国では、全国的に米騒動の暴動が広がり、近隣地域が騒然たる無政府状態になった時にも暴動が起こらなかった。内田家が行った救貧活動は、飢饉による困窮者への施与だけでなく、火事見舞いや病気見舞い、未亡人や高齢者・病人のいる家庭への援助等があり、妻を失った人や行旅病人のような行き倒れの人も救済している。こうした救貧活動に身をささげるようになった惣右衛門の生き方の基盤として最も大きな思想は、人類平等の思想や人間観であり、確固たる人格尊重の人権意識がこのような実践の基盤にあったと考えられている。東尋坊のほど近くに内田惣右衛門記念館が建っているが、華美を嫌う惣右衛門の意を重んじて、現在の当主によって残念ながら閉館となっている。
資本主義社会で生きる私たちは、失業、収入喪失、貧困といったリスクを抱えている。そうしたリスクに対応し、最低限の生活を送れるように様々な社会保障制度が築かれてきた。しかし、その所得配分機能が十分には機能しておらず、多くの先進諸国において持つ者と持たざる者との間に大きな生活水準の格差が生じており、約1%の大富豪が95%以上の富を独占する状況が生まれている。こうした状況を踏まえると、現代社会においても富裕層により多くの救貧活動を期待してもよいのではないだろうか。日本にもかつて内田惣右衛門のような豪商がいたということは示唆に富んでいるように思われる。
(本稿の執筆では、元福井県大教授の大塩まゆみ氏の著書である「「陰徳の豪商」の窮民思想―江戸時代のフィランソロピー―」(ミネルヴァ書房)を参考にさせていただいた。)
後発新興国での「従業員の質」
アジアに進出している日系企業が抱えている経営上の課題の一つに、「従業員の質」がある。特に、カンボジアやラオスといった、後発の新興国では、大きな問題となっている。これらの国で進出日系企業を訪問した時には「生産性は中国の数分の1にとどまる」「一カ所に座って仕事をするという経験自体初めてという者もいる」「識字率が低く、現地語で業務内容を記して指示しようとしても、文字が読めない従業員が少なくない」といった悩みを聞いた。
低い労働コストは後発新興国のメリットだが、従業員の質も低いというデメリットと隣り合わせになる。さらに、近年は賃金上昇も顕著であり、メリットは小さくなりつつあるといえる。しかし、ひとたび進出したとなれば、進出先での問題に適切に対応することが求められる。では、従業員の質に悩む日系企業は、どういう対策を講じているのだろうか。
東南アジアの日系企業数社にたずねたところ、現場での業務の進め方をひと工夫している企業がいくつもあった。「スピードは多少遅くてもいいので、ていねいに作業するよう指導している」という企業は、「速く作業して不良品の発生が増えるよりもよい」とその理由を述べた。また、いろいろな作業を覚えるのは苦手だが、一度身につけると比較的正確に作業できる、という特徴に気づいた企業では「1つの生産ラインで多品種を生産せず、似たような製品を作るようにしたら、作業効率が向上した」と、一定の効果を引き出している。従業員が多い企業の中には、「採用後、基礎研修を2週間行い、母国語や足し算・引き算、マナー、チームワークなどを教える。続いてOJTを1カ月実施する」と、実際に仕事を始める前に、手間と時間をかけるところもあった。
また、中心となる人物の育成を重視するとの意見も聞かれた。「潜在的に向上心を持っていると見受けられる人を選んで研修を受けさせ、ラインのリーダーなどに育成していく」、「ずっと在籍してほしい社員に対しては、少し多めに賃金を支給する」などである。拠点の中心になりうる人物を見極めることが大事である。また、外国人技能実習制度を利用する企業もある。進出先から実習生を本社に派遣し、研修期間終了後に進出先の拠点で中心的な人材として働いてもらう、というものだ。
後発の新興国の従業員の質を急速に高めるのは容易ではない。そんな中、進出企業は、それぞれの方法で対策に取り組んでいる。試行錯誤もあるだろうが、対策を実践していくことにより、従業員の質を次第に引き上げ、進出先での問題を小さくすることができるだろう。
ふるさと納税の返礼品に関する考察
Pさんは大都市Aに住み年収3千万円を下らない。以前から故郷に貢献したいという思いがあり、平成27年度に初めてふるさと納税について調べてみた。その結果、一定金額以内であれば寄附額とほぼ同額の控除が受けられるため、実質負担額は2千円であること。自分の年収・家族構成ではこの一定金額が百万円余りであること。そして寄附先は故郷に限らず任意に選ぶことが可能で、各自治体から様々な返礼品が送られてくることを理解した。そして、ふるさと納税ポータルサイト「チョイス」(注1)にて「百万円以上の寄附に対する35万円相当の一眼レフカメラ」という返礼品を見つけ、写真が趣味のPさんは自分の故郷ではなくそのB市への寄附を選んだ。
平成28年度になりPさんは、「チョイス」を初めから趣味目線で物色すると、B市の返礼品は66万円相当のカメラに入れ替わっていた。2千円均一ショップに66万円の超お得な目玉商品を見つけた気分であり、前年度に心をよぎったA市や故郷に対する後ろめたさはもはや微塵もなかった。
さて、ふるさと納税は誰が得して誰が損するのだろう。年収700万円の給与所得者が3万円を寄附し、1万円相当の返礼品を得る例で考えてみる。
寄附者は「-寄附額+住民税控除+所得税控除+返礼品の価額(-3+2.24+0.56+1= +0.8万円)、寄附先では「寄附額–返礼品の価額–事務コスト(+3-1-0.3= +1.7万円)」(注2)がそれぞれ得する分である。一方で寄附者の居住地の損得は「-住民税控除額+地方交付税増額(-2.24 +1.68 = -0.56万円)」、国の損得は「-所得税控除額-地方交付税増額(-0.56-1.68= -2.24万円)」となり、それぞれ住民と国民の負担になる。ここで「地方交付税増額」が生じるのは、交付団体の場合、基準財政収入減少分の75%が交付税で補填されるためである。
ところで、返礼品は寄附の見返りではなく一時所得に該当するため、それを含むその年の一時所得が 50万円を超えた場合、課税関係が生じ申告の必要がある(注3)。返礼品と切り離されることで寄附となり控除の正当性を担保するのである。しかしながら現実には不可分のものとして運用する自治体、そして利用する納税者が多くなっている。この運用状況が生じる限り、自治体側は返礼品競争、納税者側はお得な返礼品探しを、故郷関係とは違うところで続けていくことが合理的である。それらをしない自治体や納税者が、機敏な自治体や納税者に血税を合法的に吸い取られることに等しいのだ。しかも高額所得者に有利に働くため、所得の再分配機能の低下をも招く。
故郷とのつながりを感じさせる品や、故郷のまちづくりへの関与等で工夫をこらしている自治体も少なくないが、お値打ち返礼品を据えた自治体が、ふるさと納税額のトップに並ぶのが現実。何らかの歯止めが必要であろう。注1:http://www.furusato-tax.jp/
注2:事務コストは仮定。寄附先以外でも生じるがここでは省略
注3:国税庁「ふるさと寄附金を支出した者が地方公共団体から謝礼を受けた場合の課税関係」「パナマ文書」の衝撃
一般的に、日本人の多くは税金を「納める」というよりも「取られる」と感じているらしいが、「取られたくない」気持ちは世界共通であるようだ。いわゆる「パナマ文書」で明らかにされた、主要各国の多数に及ぶ政治家や関係者が「タックス・ヘイブン」を利用していた問題のことである。
OECD租税委員会の報告(2000年)によると、タックス・ヘイブンとみなされる国は問題の発覚したパナマだけでなく、カリブ地域や太平洋地域を中心に35か国にも及ぶという。これまで、タックス・ヘイブンの問題は、グローバルに活動する大企業が、およそ実態のない会社をパナマなどのほとんど税金を課されない国に設立し、世界各国で多額の利益をあげながら、それに見合うだけの納税をしていなかったことが注目されてきた。しかも、タックス・ヘイブンでは情報開示がほとんど行われず、全容を把握することはきわめて困難である。このことについて「税逃れ」と批判さるべきは言うまでもないが、志賀櫻著「タックス・ヘイブン」(岩波新書)などを読むと、「逃げる税金」と「捉える国家」の双方に膨大な人材と知恵が投入されていることに「もっと有益な使い方はないのか」と虚無感さえ覚えてしまう。
今回報道されたパナマ文書は、法律事務所「モサック・フォンセカ社」による、約40年間に及ぶ1150万件の文書である。匿名で南ドイツ新聞が入手した後、国際調査報道ジャーナリスト連合ICIJで分析されているという。報道の中で特に注目されているのは、多くの政治家やその関係者もまた企業と同様にタックス・ヘイブンを利用していたことである。これが企業と同様の税逃れであることはもちろん問題だが、より深刻なのは「税金を使う立場にある政治家が租税を回避していた」ということではないだろうか。税金は彼らの意思決定の下で様々な公共サービスを行うための財源であり、それを彼ら自身が「納める」ことなく「取られたくない」と考えてタックス・ヘイブンを利用したのであれば、政治家の存在意義にも関わる可能性がある。今回の件で問題視されるのは、この点であろう。
タックス・ヘイブンの利用は企業や政治家に限られるわけではないが、実態は大半の中間層や低所得者層が利用することなく各国の制度に従って納税している。こうしたなかで、パナマ文書は「公共サービスの価値が政治家自身に十分自覚されていない以上、すべての人にそう思われても仕方がない」という認識を拡散してしまう可能性がある。パナマ文書の衝撃は、政治家の辞任などに広がることが懸念されているが、私たちにも納税義務の意識後退という危険性を孕んでいるような気がしてならない。
経済の減速と民政への困難な道のりを歩むタイ
2014年5月22日にタイ陸軍による8年ぶりのクーデターが発生し、その後軍事暫定政権が発足してから早くも2年弱が経過した。以前、筆者個人としてはあの時点における政治の混乱を収拾するためには、一時的に軍が権力を掌握するのは必要悪として仕方のないものであろうと書いた。暫定首相となったプラユット氏が率いる政権は、過去の文民政治家ができなかったタイ政治の構造的な問題を解決しつつ、新憲法の下における総選挙で民政移管を果たすことを期待された。それも2年間という期限付きのものであった。2015年には爆弾テロ事件があったが、首都バンコクは概して平穏で豊かであり、プラユット首相は想像以上に行政能力のある聡明な人物であるとの評が聞かれた。その中で「ロードマップ」に従って、積極的な改革と順調な国家運営がなされてきたかと問われるとそうとも言えない。
まず大きな期待がかかった税制改革の遺産税(相続税)導入であるが、2016年2月より導入された。しかし税率の低い案であったにも関わらずさらに後退し限られたものとなった。資産課税の強化はタイの経済格差を是正可能にするのと同時に、赤勢力(タクシン派)との宥和のメッセージともなったはずだった。改革の一丁目一番地から躓いた失望感が強い。プラユット政権は閣僚33人のうち12人が軍人であり、過去の軍事色の強いタイ政権においても突出している。こうした軍の上層部による改革が、タイ社会の経済的頂点であるエスタブリッシュメントと同一の利益を共有していることが分かったことは、タイの民衆あるいは軍の中でも兵士クラスとの断裂を一層深めることになりかねない。
一方、一見好調に見える街角景気とは異なりタイの経済成長率は鈍化している。ASEAN各国が全般に5から6%成長する中で、タイは2015年が2.9%、2016年も2から3%の成長にとどまる見込みである。2015年は年初に投資優遇措置の内容を変更したこともあり、外国直接投資(FDI)が前年比で激減した。タイへのFDIの過半数を占める日本からの投資も大きく減ったため危機感をもったタイ政府はプラユット首相も来日し、タイ投資委員会(BOI)は説明会を日本各地でおこない、当地福井でも2015年3月に「タイ投資セミナー」として開催された。タイの経済成長の鈍化要因は外国投資だけではなく、米国の利上げ観測、中国要因、タイの人件費高騰と「中所得国の罠」問題への対応などが複合したものであると言える。しかしながら、これを軍政の失政ととらえる向きが増えており、民政移管が約1年遅れる見通しが明らかにされるにつれ、軍事政権への批判が徐々に高まりつつあるのが現状である。
ASEANでは2015年末にASEAN経済共同体(AEC)が発足し、10カ国による地域統合は今後より結束の強いものに変容するとみられている。またメコン地域においてもサブリージョナル(準地域)の経済協力が、主に日本の支援の元に進められている。こうした枠組みや取り組みの中でタイが占める位置は極めて重要であり、タイの政治・経済の不安定化は地域に対しても大きな影響を与えることが考えられる。軍政に残された時間はそれ程多くないが、スムースな民政移管が行えるよう、またできることならタイの懸案事項を一つでも多く解決してもらいたい。民政移管後のタイが再度の政治衝突によって、2010年のような大混乱に陥ることは何としても避けなければならない。
人の寿命と地方創生
わが国の人口減少は当面、いや少なくとも今後半世紀はほぼ間違いなく続くとみられる。それは、人口減少の最大の要因が死亡数の増加にあるからに他ならない。出生数の増加は人口減少の程度を緩和させることには繋がるが、死亡者数を上回らない限り人口総数は増えない。こんな当たり前の原則が、地方創生がらみの人口減少対策のなかでは忘れ去られているような気がする(あるいは、気づいてはいても黙っている人が多いだけなのかもしれない)。
何故人口が減り続けると断言できるかといえば、まず外国国籍の人たちの定住者(日本国籍への異動を含む)がヨーロッパやアメリカ等の先進諸国と比較して少なく、逆に日本国籍を持つ人口のうち長期に国外滞在する人口が増加していることにより、わが国の場合、国際人口移動が人口増加にほとんど寄与していないということが前提にあるが、この前提が今後も大きく変わらないと仮定すれば、団塊の世代と団塊ジュニアの世代という巨大な人口集団が今後順次亡くなることが自明だからである。一方、出生率が2.07程度の人口置換水準にまで回復すれば人口減少に歯止めがかかるのは理論上間違いではないが、現実にそういう時代が来るのか否か、現時点では誰も断定できない。
今日の地方創生の議論で抜け落ちていると感じるのは、人口減少対策と関連付けられているにもかかわらず、出生よりも確実に見通すことのできる死亡について触れられる機会がほとんど無いことである。社人研将来推計の死亡仮定では、平均寿命が今後も伸び続け、死亡のタイミングが今後も更に遅くなる、換言すれば、平均的な日本人は90歳、100歳まで死ぬことがない、としている。この仮定が間違っているとしても死亡者数自体は大して変わらず推計結果への影響はさほど目立たないが、寿命はもうこれ以上伸びない可能性もあるということを国民とともに考えるという姿勢で、そろそろ異なる仮定設定も必要ではないかと常々考えている。私たち一人一人が”死”について真摯に考える機会が増えれば、健康や幸福の意味も今とは異なってくるように思われる。
世界的にみると平和な時間を長く過ごしてきた戦後生まれの日本人の多くは、死亡というライフイベントから意識のうえでかなり遠ざかっているような気がする。戦後の日本では、乳児死亡が急速に低下し、若年者の死亡率も極めて低くなるなかで、人が死ぬのは何も高齢になってからでは無いという現実に直面する機会がずいぶんと減った。同時に、三世代同居などの居住形態が減る一方で未婚者や単独世帯の割合が増え続けるなか、人は誰もが他の生物と同様に老い、終には死に至るという不可避のライフコースを辿る、という当たり前の事実を日常生活のなかで実感する機会が、わが国ではめっきり減ってしまった。こんな今の日本でも若くして命を落とすケースは少なくない。20歳前後の若年者の死因第1位は自殺、次いで不慮の事故。近年私たちが敏感になる地震や津波・洪水・雪崩などの自然の力への曝露(一般的には自然災害と表されることが多いが)は当然子どもや若い人をも巻き込む。若者の死亡率が最も高くなるのは、世界的にみても歴史的にみても例外なく”戦争”状態にある時である。しかも、短期的かつ劇的に地域の人口構造を変えてしまう。死亡だけでなく、人口移動や出生にも多大な影響を及ぼす。
福井に来て以降、霞が関で仕事をしている時よりも国政の動向を気にすることが格段に減った。だからという訳ではないが、一国民として納得できない法案が次々と成立・実施される。4月から始める次年度でも、国政における重要案件に関する審議が大変多くなっている。今年度策定された「ふくい創生・人口減少対策」が今後現場で結実するためには、私たち一人一人が広くかつ長期的な視点で今日の人口減少社会を俯瞰し、福井において真に大切なものが何なのかを、冷静に捉え直す必要があるのかもしれない。
少し長くなったが、最後にもう一つだけお付き合いいただきたい。先般、平成27(2015)年国勢調査の速報値(要計表による人口集計値)が発表された。皆さんは今回の結果をどのようにみられたであろうか?私個人的にはこの数値よりも1か月前に同じ総務省統計局によって公表された「平成27(2015)年 住民基本台帳人口移動報告」の結果のほうに興味を持った。地方創生と騒がれているのとは裏腹に、東京及び首都圏への一極集中が加速していることが明らかになっている。人の流れを変えるのは容易ではない。福井は慌てず騒がず堅実に。
中小企業のグローバル人材育成
ここ数年、FTA(自由貿易協定)やTPP(環太平洋経済連携協定)がよく話題になっているが、日本企業の海外展開、グローバル化は今に始まった話ではない。1985年のプラザ合意以降の円高が進展する中で、福井県企業も ―― 具体的には繊維や眼鏡、あるいは化学や機械等 ―― いろいろな業種が海外展開した。中でも中国、ベトナム、タイ等のアジア諸国へ進出していったのであるが、これら企業の進出先での経営活動を担う人材が、いわゆる「グローバル人材」である。
経済産業省の調査によれば、2014年3月末現在で日本からの進出企業(非製造業も含めて)で働いている人の数は552万人に及び、日本国内の雇用者数の約1割に相当する規模に達している。また、内閣府の調査によれば、日本の製造業の海外生産比率は2014年3月末で22.9%、5年後の2019年3月末には26.2%とさらに高まると見通している。
確かに「グローバル人材」の「確保・育成」の必要性は強まっている。だが、こうした人材の「確保・育成」は事業展開する海外に限らず、国内でも非常に難しいことである。とりわけ中小企業は「グローバル人材」の「確保・育成」は困難である。というのも一般に中小企業は大企業に比べて資金面などに制約があるからである。それでは、どのようにして中小企業は「グローバル人材」を「確保・育成」しているのだろうか。この点をアジア進出の日系企業3社(いずれも自動車部品製造業。以下A社、B社、C社と記す)をとりあげ検討してみよう。いずれも日本人を対象にした制度をとらえている。1.現下のグローバル人材の教育訓練の仕組みについて
結論から言えば、いずれの企業も、グローバル人材を育成するための体系的な訓練制度はない。中堅層以上、さらにはそれ以上のマネジャー層には海外勤務のための特別の管理職教育は存在しない。他方、若手社員は入社してすぐに海外に派遣(若手社員の早期海外派遣)する仕組みが設置されているが、3ヶ月程度の海外出張をベースにしたものがあるだけである。それ以外の特別の訓練の仕組みは用意されておらず、若手社員の早期海外派遣の次元にとどまっている。2.次世代の人材育成に向けた新たな取り組みについて
上に述べたように、各社の教育訓練面での取り組みは多分に限定的である。しかし、それにもかわらず、3つの企業は、いずれも安定的・継続的な企業運営の実現に向けて次の世代の人材育成の必要性を認識し、新卒採用等を通じて必要な人材を確保・育成しようとしている。
例えば、B社は、大卒・大学院卒、高専卒、高卒と幅広い層から採用しているが、このうち大卒・大学院卒は採用時に海外勤務の可否を確認するようにしており、その際に海外勤務ができないとの意思を表明した応募者は採用しないという方針をとっている。
C社は新人であれ、ベテランであれ、日本人スタッフは全員「赴任(=出向)させるのではなく、3ヶ月間の出張(もしくは5ヶ月間の長期出張)を繰り返す」という形で派遣している。4から5年間の海外勤務を担当する人材を確保するのは難しいが、3から5ヶ月間程度の出張ベースの海外勤務であれば比較的本人や家族からの了解・合意が形成されやすいからである。
また他にもA社とC社は日常的に語学力向上に取り組んでいる。例えばA社は、朝礼の中で英語のスピーチを全員持ち回りで実施している。この狙いは、日本人スタッフの「英語に対する苦手意識をなくし」、ひいてはできるだけ多くの人に海外勤務を担当してもらえるようにすることにある。
これら3社の取り組みは、いずれもグローバル人材を量的に確保しプールするための経営独自の工夫の一例であると言えるだろう。以上、要するに、3つの企業は (1) 従来、どちらかというとその場その場で必要に迫られて行っていた人材育成のあり方を見直し、(2) それによってもう少し日常的にかつ体系的に人材育成に取り組むことができるようにすることを目指している。
だが、「このようにすれば、人材育成がうまく行く」というような最善の人事諸施策があるわけではない。どの中小企業も大概、大企業に比べて資金面などに制約がある。このため、自社ができる範囲を勘案しながら独自のやり方を考案し、実行していかなくてはならない。
無論、中にはさほど目新しい取り組みは行っていない企業もみられる。けれども(そうした地道な取り組みも含めて)その一つ一つは「グローバル人材」の「確保・育成」にとって欠かせないものである。それらは経営資源に制約がある中小企業の「グローバル展開の下地づくり」の実現にとって決定的とも言える重要性をもつからである。注:このコラムは、福井銀行様の御厚意により同銀行の機関紙『福銀ジャーナル』に「寄稿文」として掲載していただいたものをベースに、できるだけ論旨が明確になるように新たに書き下ろしたものである。掲載時の原題は「中小企業のグローバル人材育成の現地点」(『福銀ジャーナル』盛夏号、2015年7月)である。