2016年
経済の減速と民政への困難な道のりを歩むタイ
2014年5月22日にタイ陸軍による8年ぶりのクーデターが発生し、その後軍事暫定政権が発足してから早くも2年弱が経過した。以前、筆者個人としてはあの時点における政治の混乱を収拾するためには、一時的に軍が権力を掌握するのは必要悪として仕方のないものであろうと書いた。暫定首相となったプラユット氏が率いる政権は、過去の文民政治家ができなかったタイ政治の構造的な問題を解決しつつ、新憲法の下における総選挙で民政移管を果たすことを期待された。それも2年間という期限付きのものであった。2015年には爆弾テロ事件があったが、首都バンコクは概して平穏で豊かであり、プラユット首相は想像以上に行政能力のある聡明な人物であるとの評が聞かれた。その中で「ロードマップ」に従って、積極的な改革と順調な国家運営がなされてきたかと問われるとそうとも言えない。
まず大きな期待がかかった税制改革の遺産税(相続税)導入であるが、2016年2月より導入された。しかし税率の低い案であったにも関わらずさらに後退し限られたものとなった。資産課税の強化はタイの経済格差を是正可能にするのと同時に、赤勢力(タクシン派)との宥和のメッセージともなったはずだった。改革の一丁目一番地から躓いた失望感が強い。プラユット政権は閣僚33人のうち12人が軍人であり、過去の軍事色の強いタイ政権においても突出している。こうした軍の上層部による改革が、タイ社会の経済的頂点であるエスタブリッシュメントと同一の利益を共有していることが分かったことは、タイの民衆あるいは軍の中でも兵士クラスとの断裂を一層深めることになりかねない。
一方、一見好調に見える街角景気とは異なりタイの経済成長率は鈍化している。ASEAN各国が全般に5から6%成長する中で、タイは2015年が2.9%、2016年も2から3%の成長にとどまる見込みである。2015年は年初に投資優遇措置の内容を変更したこともあり、外国直接投資(FDI)が前年比で激減した。タイへのFDIの過半数を占める日本からの投資も大きく減ったため危機感をもったタイ政府はプラユット首相も来日し、タイ投資委員会(BOI)は説明会を日本各地でおこない、当地福井でも2015年3月に「タイ投資セミナー」として開催された。タイの経済成長の鈍化要因は外国投資だけではなく、米国の利上げ観測、中国要因、タイの人件費高騰と「中所得国の罠」問題への対応などが複合したものであると言える。しかしながら、これを軍政の失政ととらえる向きが増えており、民政移管が約1年遅れる見通しが明らかにされるにつれ、軍事政権への批判が徐々に高まりつつあるのが現状である。
ASEANでは2015年末にASEAN経済共同体(AEC)が発足し、10カ国による地域統合は今後より結束の強いものに変容するとみられている。またメコン地域においてもサブリージョナル(準地域)の経済協力が、主に日本の支援の元に進められている。こうした枠組みや取り組みの中でタイが占める位置は極めて重要であり、タイの政治・経済の不安定化は地域に対しても大きな影響を与えることが考えられる。軍政に残された時間はそれ程多くないが、スムースな民政移管が行えるよう、またできることならタイの懸案事項を一つでも多く解決してもらいたい。民政移管後のタイが再度の政治衝突によって、2010年のような大混乱に陥ることは何としても避けなければならない。
ふくい地域経済研究第22号
人の寿命と地方創生
わが国の人口減少は当面、いや少なくとも今後半世紀はほぼ間違いなく続くとみられる。それは、人口減少の最大の要因が死亡数の増加にあるからに他ならない。出生数の増加は人口減少の程度を緩和させることには繋がるが、死亡者数を上回らない限り人口総数は増えない。こんな当たり前の原則が、地方創生がらみの人口減少対策のなかでは忘れ去られているような気がする(あるいは、気づいてはいても黙っている人が多いだけなのかもしれない)。
何故人口が減り続けると断言できるかといえば、まず外国国籍の人たちの定住者(日本国籍への異動を含む)がヨーロッパやアメリカ等の先進諸国と比較して少なく、逆に日本国籍を持つ人口のうち長期に国外滞在する人口が増加していることにより、わが国の場合、国際人口移動が人口増加にほとんど寄与していないということが前提にあるが、この前提が今後も大きく変わらないと仮定すれば、団塊の世代と団塊ジュニアの世代という巨大な人口集団が今後順次亡くなることが自明だからである。一方、出生率が2.07程度の人口置換水準にまで回復すれば人口減少に歯止めがかかるのは理論上間違いではないが、現実にそういう時代が来るのか否か、現時点では誰も断定できない。
今日の地方創生の議論で抜け落ちていると感じるのは、人口減少対策と関連付けられているにもかかわらず、出生よりも確実に見通すことのできる死亡について触れられる機会がほとんど無いことである。社人研将来推計の死亡仮定では、平均寿命が今後も伸び続け、死亡のタイミングが今後も更に遅くなる、換言すれば、平均的な日本人は90歳、100歳まで死ぬことがない、としている。この仮定が間違っているとしても死亡者数自体は大して変わらず推計結果への影響はさほど目立たないが、寿命はもうこれ以上伸びない可能性もあるということを国民とともに考えるという姿勢で、そろそろ異なる仮定設定も必要ではないかと常々考えている。私たち一人一人が”死”について真摯に考える機会が増えれば、健康や幸福の意味も今とは異なってくるように思われる。
世界的にみると平和な時間を長く過ごしてきた戦後生まれの日本人の多くは、死亡というライフイベントから意識のうえでかなり遠ざかっているような気がする。戦後の日本では、乳児死亡が急速に低下し、若年者の死亡率も極めて低くなるなかで、人が死ぬのは何も高齢になってからでは無いという現実に直面する機会がずいぶんと減った。同時に、三世代同居などの居住形態が減る一方で未婚者や単独世帯の割合が増え続けるなか、人は誰もが他の生物と同様に老い、終には死に至るという不可避のライフコースを辿る、という当たり前の事実を日常生活のなかで実感する機会が、わが国ではめっきり減ってしまった。こんな今の日本でも若くして命を落とすケースは少なくない。20歳前後の若年者の死因第1位は自殺、次いで不慮の事故。近年私たちが敏感になる地震や津波・洪水・雪崩などの自然の力への曝露(一般的には自然災害と表されることが多いが)は当然子どもや若い人をも巻き込む。若者の死亡率が最も高くなるのは、世界的にみても歴史的にみても例外なく”戦争”状態にある時である。しかも、短期的かつ劇的に地域の人口構造を変えてしまう。死亡だけでなく、人口移動や出生にも多大な影響を及ぼす。
福井に来て以降、霞が関で仕事をしている時よりも国政の動向を気にすることが格段に減った。だからという訳ではないが、一国民として納得できない法案が次々と成立・実施される。4月から始める次年度でも、国政における重要案件に関する審議が大変多くなっている。今年度策定された「ふくい創生・人口減少対策」が今後現場で結実するためには、私たち一人一人が広くかつ長期的な視点で今日の人口減少社会を俯瞰し、福井において真に大切なものが何なのかを、冷静に捉え直す必要があるのかもしれない。
少し長くなったが、最後にもう一つだけお付き合いいただきたい。先般、平成27(2015)年国勢調査の速報値(要計表による人口集計値)が発表された。皆さんは今回の結果をどのようにみられたであろうか?私個人的にはこの数値よりも1か月前に同じ総務省統計局によって公表された「平成27(2015)年 住民基本台帳人口移動報告」の結果のほうに興味を持った。地方創生と騒がれているのとは裏腹に、東京及び首都圏への一極集中が加速していることが明らかになっている。人の流れを変えるのは容易ではない。福井は慌てず騒がず堅実に。
中小企業のグローバル人材育成
ここ数年、FTA(自由貿易協定)やTPP(環太平洋経済連携協定)がよく話題になっているが、日本企業の海外展開、グローバル化は今に始まった話ではない。1985年のプラザ合意以降の円高が進展する中で、福井県企業も ―― 具体的には繊維や眼鏡、あるいは化学や機械等 ―― いろいろな業種が海外展開した。中でも中国、ベトナム、タイ等のアジア諸国へ進出していったのであるが、これら企業の進出先での経営活動を担う人材が、いわゆる「グローバル人材」である。
経済産業省の調査によれば、2014年3月末現在で日本からの進出企業(非製造業も含めて)で働いている人の数は552万人に及び、日本国内の雇用者数の約1割に相当する規模に達している。また、内閣府の調査によれば、日本の製造業の海外生産比率は2014年3月末で22.9%、5年後の2019年3月末には26.2%とさらに高まると見通している。
確かに「グローバル人材」の「確保・育成」の必要性は強まっている。だが、こうした人材の「確保・育成」は事業展開する海外に限らず、国内でも非常に難しいことである。とりわけ中小企業は「グローバル人材」の「確保・育成」は困難である。というのも一般に中小企業は大企業に比べて資金面などに制約があるからである。それでは、どのようにして中小企業は「グローバル人材」を「確保・育成」しているのだろうか。この点をアジア進出の日系企業3社(いずれも自動車部品製造業。以下A社、B社、C社と記す)をとりあげ検討してみよう。いずれも日本人を対象にした制度をとらえている。1.現下のグローバル人材の教育訓練の仕組みについて
結論から言えば、いずれの企業も、グローバル人材を育成するための体系的な訓練制度はない。中堅層以上、さらにはそれ以上のマネジャー層には海外勤務のための特別の管理職教育は存在しない。他方、若手社員は入社してすぐに海外に派遣(若手社員の早期海外派遣)する仕組みが設置されているが、3ヶ月程度の海外出張をベースにしたものがあるだけである。それ以外の特別の訓練の仕組みは用意されておらず、若手社員の早期海外派遣の次元にとどまっている。2.次世代の人材育成に向けた新たな取り組みについて
上に述べたように、各社の教育訓練面での取り組みは多分に限定的である。しかし、それにもかわらず、3つの企業は、いずれも安定的・継続的な企業運営の実現に向けて次の世代の人材育成の必要性を認識し、新卒採用等を通じて必要な人材を確保・育成しようとしている。
例えば、B社は、大卒・大学院卒、高専卒、高卒と幅広い層から採用しているが、このうち大卒・大学院卒は採用時に海外勤務の可否を確認するようにしており、その際に海外勤務ができないとの意思を表明した応募者は採用しないという方針をとっている。
C社は新人であれ、ベテランであれ、日本人スタッフは全員「赴任(=出向)させるのではなく、3ヶ月間の出張(もしくは5ヶ月間の長期出張)を繰り返す」という形で派遣している。4から5年間の海外勤務を担当する人材を確保するのは難しいが、3から5ヶ月間程度の出張ベースの海外勤務であれば比較的本人や家族からの了解・合意が形成されやすいからである。
また他にもA社とC社は日常的に語学力向上に取り組んでいる。例えばA社は、朝礼の中で英語のスピーチを全員持ち回りで実施している。この狙いは、日本人スタッフの「英語に対する苦手意識をなくし」、ひいてはできるだけ多くの人に海外勤務を担当してもらえるようにすることにある。
これら3社の取り組みは、いずれもグローバル人材を量的に確保しプールするための経営独自の工夫の一例であると言えるだろう。以上、要するに、3つの企業は (1) 従来、どちらかというとその場その場で必要に迫られて行っていた人材育成のあり方を見直し、(2) それによってもう少し日常的にかつ体系的に人材育成に取り組むことができるようにすることを目指している。
だが、「このようにすれば、人材育成がうまく行く」というような最善の人事諸施策があるわけではない。どの中小企業も大概、大企業に比べて資金面などに制約がある。このため、自社ができる範囲を勘案しながら独自のやり方を考案し、実行していかなくてはならない。
無論、中にはさほど目新しい取り組みは行っていない企業もみられる。けれども(そうした地道な取り組みも含めて)その一つ一つは「グローバル人材」の「確保・育成」にとって欠かせないものである。それらは経営資源に制約がある中小企業の「グローバル展開の下地づくり」の実現にとって決定的とも言える重要性をもつからである。注:このコラムは、福井銀行様の御厚意により同銀行の機関紙『福銀ジャーナル』に「寄稿文」として掲載していただいたものをベースに、できるだけ論旨が明確になるように新たに書き下ろしたものである。掲載時の原題は「中小企業のグローバル人材育成の現地点」(『福銀ジャーナル』盛夏号、2015年7月)である。